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瞑想中の反応いろいろ

ーーーー『宇宙の根っこにつながる生き方』 天外伺朗より引用ーーーー
第4章 かんたん瞑想で身も心もすっきりする 

瞑想中の望ましい反応

1. 手足などの体の一部、あるいは体全体が軽くなった感じ、もしくは存在しないような感じになります。透明になったような、あるいはビリビリとしびれるような感じになります。

2. 心身がゆったりとくつろいだ感じ、体が温かく包まれている感じになります。気持ちがよく、至福感にあふれてきます。

3. 脈拍がゆったりとして楽になります。

4. 呼吸がゆったりと穏やかになります。最終的には、自然に呼吸筋が動かなくなります。


瞑想中にともなう正常な反応

1. 唾液が大量に出ます。

2. 悲しくもないのにわけもなく涙が出てきます。

3. 皮膚がむずむずしたり、かゆくなったりします。(かゆくなったらかけばいいし、我慢する必要はありません)また、お腹がゴロゴロいいます。

4. 心臓の鼓動がドキドキ強く感じられます。(鼓動が速くなるということではありません。速くなるのはよくない反応です)

5. せきが出ます。悪いところが痛くなります。(胃腸が悪い人はお腹が、膝が悪い人は膝が痛み出します)

6. 体の一部がピクッと動くことがあります。あるいはガクガクと震えがきます。極端な場合は体が勝手に動き出します。(これらはすべていいことです。ストレスの解消を体が自動的にやっているわけで、心配する必要はまったくありません。体が勝手に動きだすことを気功法では「自発動功」といいます。ストレスの解消がある程度進めば、体が動かなくなります。本当の瞑想はそこからはじまりますあ。)

7. 瞑想中の反応ではありませんが、瞑想をはじめるようになると、朝早く目覚めるようになります(瞑想をすることによって睡眠の何倍かの休息がとれ、自然に睡眠が足りて目が覚めるわけで、少しも心配はいりません)

8. 瞑想直後に軽いめまいを感じます。あるいは頭に軽い圧迫感が残ります。記憶がすこしおかしくなり、かんたんなことが思い出せません。(だいたい30分で復帰します)

うーむ。要するに自律神経系の活動がすごく活発になるということだよね。そしてこの反応はクレニオセイクラルをやったときに非常に似ている。とくに6は本当にかなりの人が起こす反応で、手足がピクっと動くことはいいことされているし、こないだはクレニオのセッション中本当に体がすごい勢いで動きだして、ストレッチしてるみたいな感じになったりだとかということもあった。

あと、7はいいなあ。私はまだ朝早くに起きられない。朝型の生活にしたいしたいと願いながらもなかなか睡魔に勝てない。でも今は瞑想を毎日やってるわけじゃないので、これを習慣にしていって、気がついたら自然に朝型になっていた、というふうになっているといいな〜

瞑想をストップしたほうがいい症状

1. 頭が締め付けられるような強い頭痛がきたり、悪寒や吐き気、もしくは腹部に強い圧迫感が来る

2. 脈拍がどんどん速くなってくる。正常な状態では脈拍はしだいに遅くなっていきます。

3. 息苦しくなったり、呼吸がどんどん速くなる

4. 原因不明の恐怖感を覚えることがある

5. 霊界に入る(幽霊が見えたり、息吹が聞こえたりします)


以上が好ましくない反応です。こういう反応がでたら、5以外の場合は、すぐに瞑想をやめ、横になってゆっくり休んでください。

そして次にやるときは、少し時間をおいてやったほうがいいでしょう。そのときも、事前の体操にもっと時間をかけたり、あるいはジョギングなどでもっと体を動かしておくことが必要です。また、深呼吸をもう少し長くし、体も徹底的にゆるめます。というのは、体のどこかにこわばりがあるときにこのような好ましくない反応が起こりがちだからです。要するに瞑想の前の準備にもう少し時間をかけることです。

フロイトの弟子のひとり、ライヒは、人間はいろいろなストレスを受けると、それが筋肉の緊張となって残り、精神的な障害の原因になると考えました。彼は、この筋肉の緊張を「性格の鎧」と呼んでいます。過去に受けたストレスが鎧のように筋肉の緊張となって残り、その人の性格を形成しているというわけです。

成人なら、誰でも多かれ少なかれ「性格の鎧」をもっており、体にさわってみると、その人がこれまで受けたストレスの程度がわかるといいます。ということは、体をほぐすこと、つまり鎧を破壊することがストレスの解消につながるということです。その方法がボディワークです。今世の中にあるボディワークのほとんどは、ライヒの理論から出発しています。

人生の歪みが、ライヒのいうように体のどこかにきている人は、瞑想をしても快い瞑想にはなりません。体の緊張をほぐす必要性はそこにあります。
現代人は運動不足で、バランスが悪くなっており、瞑想だけをやると、「好ましくない反応」が起きがちです。ですから、そういう反応が起こる人は、事前になるべく思い切り体を動かしましょう。ヨーガや気功法をきちんとやってみるとか、ボディワークをきちんと受けてみることをおすすめしたいと思います。

「性格の鎧」か。鎧とは非常に言い得ている気がする。本当に鎧みたいになっている人いっぱいいるもん。すごい筋膜が緊張して張っていて「奥には絶対入れさせない!」と主張しているカラダ。筋肉の奥のほうになんて絶対どれだけ力を入れても入らない。からだをさわるとある程度その人のストレスレベルがわかるというのもとても納得。体格だとかからだの状態を見たら、だいたいその人の性格とかもわかる。からだの特徴が、すなわち性格上の特徴。違っていることは今までの中ではひとりもいない。ちなみにこのライヒという人について調べてみたら、結構すごい人生を送っていて、そういう人がこの理論を打ち立てたのかと思うと非常に興味深かった。


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ちなみに、この天外さんという方は、実は非常に技術畑の方で、ソニーの取締役をつとめ、CDの開発者だったりAIBOを世に送り出したりした人らしい。そういう方がこういう宇宙の話、瞑想の話をされるっていうのがすごく面白いなと思った。最近読んだ本に『イーグルに訊け』という本があって、その作者だったので読んだのだけど、全部が全部”納得!”というわけではないけれど、なるほどな〜と思うところがあったのでメモしてみた。

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瞑想と脳内麻薬

ーーーー『宇宙の根っこにつながる生き方』 天外伺朗より引用ーーーー
第4章 かんたん瞑想で身も心もすっきりする 

脳内麻薬を出すのが瞑想の目的

瞑想法というと、日本では座禅が有名です。ほとんどの宗教は何らかのかたちでこれを取り入れていますし、気功法の静功や、武道の鍛錬のなかにもみられます。それぞれがさまざまな方法論を説いていますが、いずれもいかに心身をリラックスさせ、雑念をはらうかということを、瞑想状態に入るためのテクニックとしています。

瞑想が深くなると、人間の脳の中で「脳内麻薬」物質が分泌されることが知られています。分子構造はコカインやヘロインなどの麻薬に似ていますが、人間の体のなかで生成するものですから、麻薬のように神経がボロボロになってしまうような副作用もありません。瞑想をすると、大変気持ちがよくなったり、幻覚を見たりすることがあるのは、この物質のおかげです。

なぜ、この物質のおかげでそういうことが起こるのでしょうか。人間の脳の前頭葉に、エーテン(A10)神経と呼ばれる神経があります。人間の創造性や快楽を刺激する神経です。たとえば、「楽しい」とか「わくわくする」といった気分のときは、このエーテン神経が興奮しており、人間にやる気や創造性を発揮させます。そして、この神経を興奮させるのがβ-エンドルフィンなどの「脳内麻薬」なのです。

瞑想を行うと、この「脳内麻薬」が分泌され、ホンワカと気持ちよくなってきます。それがもっと高じると、「意識の拡大」という現象が起こることがあります。これは瞑想中に恍惚状態になったり、幻覚を見たりする現象です。

人によってはランナーズ・ハイで、あたかも自分で自分自身の姿を離れた位置から見ているような感じになることがあります。自分の斜め後ろ上方から自分を見ているような感じになる。これを「目撃の体験」といいます。これは、一流選手なら一度ぐらいは経験している現象であり、それほど珍しいことではありません。

極端な場合には、時間を超越してしまうこともあります。まだ走行中なのに、ゴールでテープを切る自分の姿が見えてしまうのです。そして、しばらくすると本当にその通りになる。ということは、自分の未来の姿が見えていたということになるわけで、これを「未来視の体験」といっています。
このような「目撃の体験」や「未来視の体験」をする現象を「意識の拡大」と呼んでいるわけです。


最後のこの「意識の拡大」はフローだとかゾーンという状態のことを言っているのだろう。ということは、フロー状態にあるときには、βエンドルフィンがいっぱい出てるってことなんだろう。きっとそういう研究なんかもたくさんあるんだろうな。私はそういう体験したことはないように思うけど、一生に1回くらいはこんな状態を体験してみたいかも。

ディスコもマラソンも一種の瞑想

一般に瞑想法というと、座禅のように静かに座ってやるイメージが強いのですが、じっとしているだけが瞑想ではありません。体を激しく動かしながら瞑想状態に入ることもあります。ランナーズハイもそうですし、あるいはディスコで踊り狂っているときに瞑想状態に入ることもあるでしょう。
また、念仏を長時間唱えたり、単調なメロディーを長時間歌ったり聴いたりしていても瞑想に入りやすいようです。楽器演奏でリズムにのっているとき、とくに管楽器を演奏しているときにも瞑想状態に入ることがまれにあります。これは、呼吸の長さと無関係ではないでしょう。吸う息の長さにくらべ、吐く息のほうが長いほど、人間の意識はリラックスします

このように、いろいろな条件の中で、人間は脳内麻薬を出し、瞑想状態に入ります。瞑想の方法論がいろいろあるのはそのためでしょう。ということは、基本的に脳内麻薬が出るのであれば、瞑想法はどんな方法論でもかまわないわけです。

普通、脳内麻薬は死ぬときとか、マラソンなどでものすごく苦しくなったとき以外は、それほど大量には分泌されません。それ以外で大量に分泌されるのは、瞑想や坐禅の修行が相当に進んだときです。瞑想して、脳内麻薬が少し分泌してくると、ファーといい気持ちになり、宇宙に包まれたような感じになります。修行が進んで、それが大量に出るようになると、「意識の拡大」が起こり、ときには幻覚のなかで、次に述べるような「魔境の体験」や「聖なる体験」をするようなことも起きてきます。

「聖なる経験」の警告

「魔境の体験」というのは瞑想中、幻覚を見ることです。単に人形が見えたり、不思議なものが見えるだけのこともありますが、ときには悪魔が出てきたり鬼が出てきたりして、非常に怖い目に遭うことがあります。
また、幻覚のなかで神様や仏様に会ったり、天使や精霊、あるいは昔の聖人に会って、会話を交わしたりすることもあります。仏教ではこれも「魔境の経験」の一つに数えていますが、私はこれを区別して「聖なる経験」と呼んでいます。というのは、これは瞑想をしている人にとってとくに注意が必要だからです。

神様に会ってありがたい言葉をちょうだいしたりすると、自分は「悟り」を開いたのだと錯覚し、有頂天になって舞い上がってしまうケースがよくあります。それが非常に危険なのです。多くのカルト集団の教祖が、実はこのケースに相当します。
ユングは、そういう状態のことを「魂の膨張(インフレーション)」と呼び、次のように忠告しています。

こういった体験を、自己と一体化するのを避けて、あたかも人間領域の外側にあるかのように扱うのが賢明でしょう。もし同一化すると、あなたは魂の膨張、一種のエクスタシー的高揚状態に陥り、まったく道を誤ってしまうでしょう。 膨張というのはまさしく小さなかたちの狂気、狂気の緩和されたかたちなのです。そして、もしあなたが完全な膨張状態まで燃え上がってしまうと精神分裂病になります。『ユングと東洋』

私はその危険性を心得ている事が重要なのだと思います。ですから、仏様が出てこようが鬼が出て来ようが、それを突き殺すまでもなく、映画を見ているような気持で、その場面を楽しめばいいのではないでしょうか。ただし、それは決して「悟り」を開いた状態ではないということをきちんと心得て、映画を見ることができてよかった、といいう程度にとどめておく。それが、瞑想をはじめるにあたって心得ておくべき最大の注意事項といえるでしょう。それさえ覚えておけば、あとは、それほど心配するような危険性は、瞑想にはありません。


瞑想の危険性について触れている文章には初めて出会ったので、なるほどな〜とちょっと思った。
私たちは、否が応でも瞑想だとかヨーガだとかと宗教、しかもカルト宗教とを結びつけがちだ。それはもう本当にオウム真理教の犯した大きな罪のひとつだと思うのだけれども、オウムとは関係なくても瞑想に対して持つ「漠然とした不安感」というのは、ひとつはこういう「なんか変になっちゃったらどうしよう」的なことなのかもしれないなと思った。「私は神を見たので悟りを開きました」みたいな感じになって、現実世界に帰ってこれないんじゃないか、という恐れ。けれども、「神様を見た」的なことが、もし自分の身に起こったとしても、それをちゃんと自分の外側のことだとして冷静に受け止めていけばいいのだな、と思うと、そういう漠然とした不安感みたいなものはなくなるような気がする。


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集合的無意識の仮説

ーーーー『宇宙の根っこにつながる生き方』 天外伺朗より引用ーーーー
第1章 魂に栄養をつける生き方

本当の自分は内側にしかいない
わくわくするような感動を現代人が忘れてしまったのは、いったいなぜでしょうか。自分自身の魂の内側から発しているメッセージに耳を傾けなくなってきたからだ、と私は思います。つまり、本当の自分自身につながろうという努力を放棄してしまっているからではないでしょうか。

もちろん、昇進するとか、お金が儲かるといったレベルの感動もないとはいえません。しかし、そういう感動は、魂の底からしびれるような、本当の意味での感動には決して結びついてはいかないだろうと思います。本当の感動というのは、もっと本来の自分自身とつながったところから湧き出てくるものであって、そういう感動にひたれるときこそ、人間は心の底から幸福を感じることができるのだと思います。

どんなにささいなことにも感動できるということこそが、人間として正常なのだと私は思います。そしてそういう正常な状態に戻ること、つまり本当の自分自身とつながることこそが人間にとって幸福であり、それを求めるプロセスこそが人生なのではないでしょうか。

同じように、「外に行くな。真理は(自分の)内部の人に宿っている」といったのは、スイスの心理学社で精神医学者のユングです。
ユングは、自分という存在を説明する言葉として、「エゴ(EGO)」という言葉と「セルフ(SELF)」という言葉を使い分けています。日本語では一般にエゴを「自我」セルフを「自己」と訳していますが、自分の「内部の人」というのは、この「自己」のことであり、それこそが本当の自分自身であるということでしょう。

このあと例としてメーテルリンクの『青い鳥』の話が書かれてある。幸福の青い鳥を求めてあちこち旅するチルチルとミチルは、最終的に自分の家の中にあったといういお話は、幸福は結局のところ自分の心の内側にあるということを言いたかったのだろうと。

私はこれに似た経験をラオスという国で体験したことがある。ラオスというのはタイの北部にある(GDP的にいうと)貧しい国で、タイに水力発電で得た電気を売って成り立っているような国家であるが、ラオス北部のルアンパバーンという街でぶらぶら歩いているとき、川で洗濯をしていた母親に対岸で遊んでいる子供が大声でなにかを叫んでいたのを見た。

たぶん「そろそろご飯だから帰っておいで」「いやもっと遊びたいよ〜」みたいな会話だっただろうと思うのだけれども、そのの光景をぼんやり見ながら、私は何故か「ああ、幸せっていうのは、お金があるとかそういう外側の条件じゃなくて、心の中の問題なんだな」って突然思ったのだ。こんな日本から遠く離れた果てみたいな場所で、少なくとも絶対にお金持ちには見えない親子が、私を含む異国の旅人よりもなんとなく幸せそうに見えた。それは、私自身の長く続いた旅もそろそろ終わりかなと思った瞬間でもあった気がする。

人間の意識はすべてつながっている

人間の心は二重構造になっており、日常私たちが自覚している「意識層」と、その奥底に潜んでいる、ふだんはまったく意識できない、それでいて人間にいろいろ無自覚的な行動を起こさせる「無意識層」があります。

最初にこの「無意識層」を発見し、注目したのは、心理学者のフロイトでした。フロイトの弟子であったユングは、たくさんの臨床経験をもとに、人間の「無意識」の奥底に、さらに深く分け入っていきました。ユングが導き出した結論は、あまりにも一般常識からかけ離れていたために、多くの人々にすぐに理解されるといつわけにはいきませんでした。ユングは次のように言っています。

人間の「無意識」は、個人に所属するのではなく、全人類に共通であり、つながっている。

これが、ユングの「集合的無意識の仮説」といわれるものです。
人と人とは意識の深いレベルでつながっています。集合的無意識には、親族の無意識とか民族の無維持期とか、いろいろな階層があるようですが、しかし究極的に「無意識」は、奥深いところで全人類的につながっているというわけです。

もしユングのいうとおりなら、本当の自分自身、真実の人間性をもった「自己」は、表面の自分を掘り下げていった奥底にあります。そこではみんながつながっていて、自分も他人も区別がありません。したがって仮に競争のなかで他人を蹴落とせば、深いところで自分自身を蹴落とすのと同じことになるのです。また、他人の心の痛みを自分の心の痛みとして感じられる人は、本当の自分自身とどこかでつながっている人なのでしょう。
「虫の知らせ」とか「胸騒ぎ」とか「テレパシー」あるいは「以心伝心」などという現象は、人間の心と心がどこかで網の目のようにつながっていなければ、ありえないことではないでしょうか。

無意識からのメッセージに耳を傾けよ

ユングの仮説で極めて興味深いのは、「無意識」は未来を知っているとした点です。この仮説の根拠になったのは夢、すなわち「予知夢」でした。

予知夢そのものはそれほど珍しい現象ではありません。夢が「無意識」からのメッセージであるということは、フロイト以来の精神分析学の常識です。だとすれば、予知夢という現象は「無意識」が夢を通して未来のことを知らせているということになるでしょう。それは、「無意識」は未来を知っている。つまり、時間を超越した全知全能の存在である、ということになるわけです。

ユングはまた、夢は私たちの行くべき道を教えてくれる、と説いています。

人間の魂は、「無意識」と対話することにより、しだいに進化し、聖なる方向へ変容する。

「無意識」と対話するには、いろいろな方法があります。夢を分析し、解釈することも、その一つといえるでしょう。しかし、もっとも直接的で強力な方法は、何といっても瞑想法です。

魂が進化していくと、人間の表面的な「意識」と、その奥の「無意識」とが、最後は完全に一体化していきます。これが仏教でいう「悟り」の境地でしょう。

集合的無意識の話は、今まで読んだいろんな本に出てきていて一度じっくり勉強してみたいなあと思っていた。大学のゼミの教授はとにかく「引用されたら原典を当たれ」を口酸っぱく言っていたので、最終的にはユングの本を読むべきなんだろうけど、最初はわかりやすい解説書からなじんでいかないと、専門用語が多いとさっぱりわからないんだよね〜。

それにしてもまた瞑想・・・。最近読む本のあちこちに瞑想は素晴らしい的な話が載っている。
最近私も少しずつやりはじめたけど、でもほんとうに、やっぱりいいかも、瞑想。ただ座るだけの瞑想だけじゃなくて、いろいろな形で瞑想をすることができる。それはすなわちきっと無意識ーー自分自身の魂ーーとの会話なんだろうな。


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幸福感を得るためにーー気分操作の方法3ーー

ーーーー『感情』ディラン・エヴァンズより引用ーーーー
第3章 幸福への近道より

気分操作の身体的技法

瞑想は、私たちが自らの情動状態を調整するために発明した、最も安全な方法の一つかもしれない。瞑想の東洋的な形式は、精神を空っぽにし、規則正しく呼吸しながら長い間ただ座っていることを必要とするのであるが、それは、西洋でより最近になってから発達したリラクゼーションの方法と多くの点で似通っている。ここでもやはり、今日、新しいといわれるセラピーが、実のところ、何千年も前に最初に発明されたやり方を、ただ科学的に見せかけたものにすぎないということがわかる。

瞑想やリラクゼーションにおいて、情動状態を落ち着かせる効果は、カラダからのフィードバックによって成し遂げられる。リズミカルな呼吸や筋肉のリラックスした状態を、脳は穏やかな気持ちの生成に資するものと解釈するのである。他の気分も、異なる種類の身体の動きや姿勢によって引き起こされ得る。足早のジョギングは、幸福感にあふれた精神状態を誘発するし、また、ある情動に対応した顔の表情をすることは、その情動自体を感じさせることになる。情動を引き起こすこれらすべての方法を、情動の身体的技法と考えることができよう。

ウィリアム・ジェームズが1882年に指摘したように、こうした情動の身体的技法が存在するということあは、情動についての私たちの常識的考えの一つに疑問を投げかける。常識的な見方によれば、情動は身体的な動きに先立って現れ、その動きを引き起こすものということになる。例えば、熊を見て逃げるという例をとってみて考えてみたとき、ほとんどの人は、おそらく、熊が見えたことで恐れを感じ、そしてその恐れを感じたことで、今度は走ったのだと言うだろう。しかし、落ち着いた気持ちを得るために瞑想を用いたり、より幸福な気持ちを感じるためにジョギングをしたりするというとき、事はあべこべになる。この場合、情動を引き起こすのは身体の動きであり、身体の動きを引き起こすのが情動ではないのである。

心が身体に働きかけるのと同じように、身体が心のに働きかけるフィードバックのメカニズムが存在するのである。あらゆるフィードバック・ループにおけるのと同じように、それは増幅作用を生み出す。ジェームズは心の「共鳴板」としての身体について述べている。それは、ギターの共鳴箱が元の響きを増幅させるように、情動のシグナルを反響させるのである。これこそが、「自らの身体を奮い立たせる」ことで明確な情動状態を創り出すという私たちの能力を説明するものなのである。

逆に、情動の身体的技法が明らかにしているように、このフィードバックの仕組みによって、私たちは、通常ならば自動的に生じる身体的変化を故意に抑制したり、意識的に他のことをしたりすることで、自らの情動を何らかの形でコントロールすることができるようになるのである。

もちろんそこには限界がある。単に無理矢理笑顔を作ることだけでは、おり大きな幸福感が得られるわけではない。これは情動的な表情に関わる多くの筋肉が、随意的コントロールの及ばないものだからである。例えば、あなたが自発的に笑うとき、眼輪筋(目を取り囲む筋肉)は両側に収縮し、頬をつり上げ、肌を鼻に向けて内側に引き寄せる。この筋肉は随意的コントロールを容易には寄せ付けないものであり、だからこそ、通常、偽りの笑顔と本物の笑顔を区別することはきわめて容易なのである。単に両口角を引き上げ、唇をカーブさせるだけでは、完璧な喜びの表情は生まれない。つまり、そうした表情をつくっても、あまり喜びが誘発さえることはないということである。

しかし、随意的なコントロールができる筋肉とそうでない筋肉の差異はさほど堅固なものではない。ヨガやバイオフィードバックのような技法を使うことで、人は、通常ならば不随意的なものである自律神経系の働きに意欲的に制御を加え得るようトレーニングすることができる

たくさんの気分操作のための身体的技法は単に気分に対して短期的な効果をもたらすだけではない。それらはまた長期的に私たちの人生の見通しをも明るくしてくれる。少しの間走ることは、単にちょっとした興奮をもたらすものでしかないが、毎日そうすることで健康が全般的に促進されるだろう。ちなみに、そうした健康状態こそが、生活に対する全般的充足感を最も説明する変数の一つなのである。一般的にスポーツはさまざまな気分の身体的技法をもたらし得るものと考えられている。短期的な幸福感を高める代わりに長期的な幸福感をすり減らす薬物とは異なり、情動の身体的技法は短期的にも長期的にも私たちに益をもたらしてくれるのである。

幸福感への近道を選ぶ際、私たちは気分操作のさまざまな技法の中からたった一つだけを選び出すという厳しい選択を強いられるわけでは必ずしもない。私たちは、選び、また混合する。すなわち、自分の好みと価値観に応じて、複数のものを結び合わせるのである。

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幸福感を得るためにーー気分操作の方法2ーー

ーーーー『感情』ディラン・エヴァンズより引用ーーーー
第3章 幸福への近道より

色の使用と音楽

色が私たちの情動に直接影響を与えることはめったにない。自閉症などの心的障害においては、まだらな色を見るだけでパニックが引き起こされることもあり得るが、多くの健常な人においては、色は気分に影響を与えることを通して間接的に情動に影響を及ぼすのである。

さまざまな色が、心地よいイメージを生み出すよう配置され得るように、多様な周波数を有する音もまた魅力的なメロディーを生み出し得るようアレンジされる。視覚的な絵画と同様に、音楽もまた、ただ純粋に愉悦をもたらすために、私たちの近く能力に直接訴えかけるよう設計された技法である。

皮膚接触の情動的な効果

他の人に優しくなでられることで脳内に天然アヘンが放出され、それがくつろいだ気分に結びつく。このことの進化論的な根拠は、人とチンパンジーの最後の共通祖先にとってグルーミング(毛づくろい)が重要であったことは、現代のチンパンジーが一日に何時間もかけて互いの毛からダニを取り除いている様を思えば、充分に考え得ることである。
私たちの進化した触覚的好みがマッサージの基礎となっている。マッサージは音楽や美術と同じく、歴史の古い技法である。

わぉ!天然アヘンですか。でも基本的に、肌と肌が触れあうことが気持ちいいものでなければ、人間は繁殖しなかったわけだから、当然といえば当然?けれども、この皮膚感覚がいろいろな要素(たとえば凝りがあるとか冷えているとか)で感じなくなってしまうこともあって、そういう人はきっと感情的にもいろいろなものを溜め込みすぎて、情動が出にくい状態になているということも考えられるよね。

味覚操作と薬物

味覚にかかわる気分操作の技法はもちろん料理である。料理は、自然の風味を増幅させ、「超刺激」の域まで高め、私たちの味覚芽を、自然がそうしえきた以上により魅惑的にくすぐるのである。
しかし、ここで自然選択は、それがもともと準備した紆余曲折の道筋には従わず、あえて幸福感への近道を進もうとする私たちに対して、ある仕返しをする。それは、私たちにブドウ糖を見つけるための安上がりで単純な仕組み、すなわち甘いものへの好みを与えたことで、私たちが自らの健康にふさわしい量以上にそれを欲してしまう危険な状態をつくりだしたのである。

今日では糖分は、スイーツと呼ばれる濃縮したかたまりで口に入り、わたしたちのそれに対する強烈な欲望は健康に深刻な問題を引き起こしている。肥満は現在、多くの豊かな国において流行病なみに増えてきているが、これは多量の糖分や脂肪を欲する進化的に準備された欲求と、料理という名の新しい技法が久美合わさったために生じてきたものなのである。

味覚に関わる気分操作の技法は、私たちの味覚芽を刺激したり、あるいは、その後の消化プロセスに他の科学的効果を及ぼしたりすることを通して、良い気分を誘発しようとする。

チョコレートは、糖分を含むほとんどの食物や飲料がまさにそうであるように、きわめて効率的な気分増幅器なのである。しかし、研究結果が示すところでは、たいがいの人は、チョコレートを食べた直後、よりポジティブでエネルギーに溢れているような気分になるのだが、この効果はすぐに弱まり、一時間後には、最初にチョコレートを食す前の段階よりも、ずっと悪い気分になってしまいがちなのである。お茶やコーヒーにも同じことが言え、それらもたしかに、ほんの短時間、気分を良い方向に増幅させるが、その後はそれよりも少し長い時間にわたって、気分を悪い方向に引き下げてしまうのである。ほとんどの薬物もまたしかりである。

それでころか食物と薬物との線引きはかなり恣意的なものであり、今日でさえ、薬物を、私たちが消費する他のさまざまな種類の物質から区別する充分な科学的基礎はいまだに存在していないのである。私たちは、栄養や味覚上の効果を期待してではなく、主に向精神作用を期待してあるものを摂取するとき、それを薬物という傾向がある。しかし実際のところ、ほとんどの種類の食物や飲料は心の状態になにがしかの影響を及ぼすものなのである。例えばカッテージチーズやチキンレバーには、脳がセロトニンと呼ばれる化学物質を作る際に必要となる高レベルのトリプトファンが含まれているが、この物質はいったん摂取されると人に良い気分をもたらすのである。
薬物は、食物とは完全に独立したカテゴリーとみなすよりも、むしろ、食物の延長線上の極に位置するとみなしてしかるべきものである。

よく考えたらものすごいことを書いてあるような・・・。チョコレートも薬物も効果は同じようなもんだ、ということだよね?でも確かにこの甘いものへの嗜好っていうのは中毒に近いものがあるような気がする。実際私も砂糖はなかなかやめられない。カフェインは特になくても大丈夫だけれど、砂糖なしで1週間、、となると、最初はキツそうだし、そもそもそんなのやりたくない!っていう感情的な拒否反応がありそうだ。でも不思議なことに、最近運動を定期的に始めたら、前ほど甘いものへの執着が減ってきたようにも思う。そっちで脳内麻薬が出てるから甘いものへの依存が減って来ているってことなのかなあ??

薬物という化学的経路

薬物は、幸福感へとつながる、おそらく最も直接的な近道である。重篤な抑うつに悩む人においては、そうした化学的経路こそが、まさに唯一のものとも言えるかもしれない。

気分を変える薬が、抑うつ患者にプロザックが処方されるときのように治療目的で用いられるにせよ、パーティ好きの者がエクスタシーを飲むときのように、気晴らし目的で用いられるにせよ、そこで生じる化学的作用は同様のものである。プロザックもエクスタシーもセロトニンのレベルを引き上げる働きをしている。こうしたことから、ある人たちは、セロトニンが気分の化学的基礎をなしていると考えるに至っている。このような理論に従うならば、脳内のセロトニンが高レベルにあると私たちは良い気分になり、一方そのレベルが下がると落ち込むことになる。しかし、こうした単純な仮説は、すべての証左と符合するものではない。
実のところ、気分の化学的起訴の詳細がいかなるものであるのか、また、抗うつ剤がどのような仕組みで作用するのかといったことについては、あまりよくわかってはいないのである。

ドーパミンノルアドレナリンといった、セロトニン以外の脳内化学物質も、気分の変化においては重要な役割を果たしている。それゆえに、こうした化学物質に作用する薬物も、情動状態を変化さえるのに用いられ得る。コカインやアンフェタミンは、脳内のドーパミンやノルアドレナリンのレベルを引き上げるわけであるが、そのため、これらの薬物には人を多幸的にする作用があると考えられる
しかしクロロプロマジンのような他の薬物も同じような作用があるものの、それらには同じような瞬間的な多幸作用はないのである。

ほとんどの気晴らしを目的とした薬の効果は、短期的なものであり、ハイな状態は比較的すぐに終わり、その後、はっきりと不快な落ち込み状態が続くことになる。最初の効果が薄らぐ前に、また薬を服用することでハイな状態を維持することが可能であるが、そうしてハイな状態を長く維持すればするほど、やがて襲ってくる落ち込み状態は最悪のものとなる。落ち込み状態が来るのを無限に先に引き延ばそうとして、ハイな状態を長く続けるために薬を飲み続け、ついには中毒症状に陥る者が出てくる。そうしたケースにおいては、薬の習慣を維持することだけが、生活の中における唯一、価値ある活動になってしまい、他の全てのことが無意味化してしまう。

わたしは、マジックマッシュルームとか葉っぱ系のものは一度も試してみたことはない。そういうものが蔓延して手に入りやすい国には何度も行ってるけど(笑)カフェインにすら劇的な効果をもたらす私なので、(全然眠れなくなる!)そういうキツい薬物は、摂ったら空恐ろしいことになりそうな気がして怖くてやれない。(いや、それはもちろん正しい選択だ!)

あと、その終わったあとの気分の落ち込みなんて絶対体験したくないというのがひとつあるのと、もうひとつ、何人かわたしのまわりで抗うつ剤のような薬物を処方されたことのある人がいて、その人が昔「ものすごく悲しかったりつらかったりするはずなのに、薬の効果で何故か本当に気分がよかったり、幸せな気持ちになるんだ。じゃあそんな化学物質で物理的に変化してしまう人間の感情って一体なんなのだろう?」というようなことを言っていて、その深い問いかけの答えを私は未だに見つけられずにいる。だからこそこういう本に興味が出てくるのかもしれない。

感情 (1冊でわかる)感情 (1冊でわかる)
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幸福感を得るためにーー気分操作の方法1ーー

ーーーー『感情』ディラン・エヴァンズより引用ーーーー
第3章 幸福への近道より

気分操作について私たちの祖先が最初に発見した技法は言葉であった。ここでは慰めること、楽しませること、「発散する」ことの3つについて述べようと思う。

慰めること

私たちの祖先は、話し方を身につけるまでの長い間、おそらく抱きしめたり優しくなでたりすることでお互い慰めあっていた。しかしいったん言葉が発明されると、かれらは同情や忠告の言葉をかけることで慰めるという新しいやり方を見つけたのだと考えられる。そうするうちに、彼らは言葉が強力な抗うつ剤になりうることを発見したのである。こうしたやり方はとても長い間私たちの身近にあったので、今やもうほとんど本能的なものになっている。

アーロン・ベックが1960年代に始めた認知療法という心理療法の一形態は、まさにこの種の内的独言に基づいている。
人にその人自身のネガティブな思考を特定し、それとポジティブなものとを入れ替える方法を教えることによって、認知療法のセラピストは、人が情動の奴隷ではなくて支配者になれるよう試みる。悪い気分をもたらしている思考を取り除き、楽しい気分を促進するような思考を積極的になし得るように訓練することで、私たちは自らの情動の状態を制御し、完全なる意志の力をもって憂うつな気分から脱する術を手に入れられるであろう。しかしこれはいつでも可能なことではないかもしれない。
ときに、情動があまりにも強烈であるため、代わりとなる思考を抱けないようなこともある。

もちろん認知療法は単に表面的な示唆を与えるものではなく、むしろネガティブな思考を特定し、除去するための具体的テクニックを教えるものでもある。熟練したセラピストによって行われるときには、それは抑うつに対処する上でプロザックなどの薬と同じくらいに有効であり得る。しかしながら、その実際の効果はセラピストのアドヴァイスよりも、むしろ(それに随伴して与えられる)同情の表現によるものではないかと考えている。

楽しませること

誰かを元気づけるためのもう一つの言葉の使い方は、おもしろい話をしたりジョークを言ったりすることである。話(story)というのは、本来、私たちの社会的な情報に対する、特別に進化した欲求に訴えかけるものであるが、たとえ、その話が真実ではなくても、その欲求はなんとか満たされるものである。

「発散」すること

発散とは、不快な情動が消えてなくなるように、それらについて語ることである。言葉による慰めおよびお話やジョークによる楽しみは、言葉そのものと同じくらい古い起源を有する可能性があるのに対し、発散はかなり最近になって創り出されたものといえる。それは、不快な情動を取り除くという明確な目的を持った言葉の使用である。

しかしこの後、フロイトが発祥のこのやり方は、時には危険なこともあるという展開がされる。

言語は、幸福感へと至る最も効果的な近道ではないようである。よく選びこまれたいくつかの言語はときに慰めをもたらしてくれるかもしれないし、また巧みなジョークはどっと笑いを引き起こしてくれるかもしれないが、こうしたことが、重篤な抑うつを癒すほどまでに充分であることはめったにない。また自分自身の悪い情感について語ることが、いつも気分を好転させるための最良の方法とは限らないのである。こうした理由で人は常に言葉それだけよりも幸福感により素早くまた安全に至り着く近道となる、他の気分変容のための技法を探し続けているのである。

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幸福への近道

ーーーー『感情』ディラン・エヴァンズより引用ーーーー

第3章 幸福への近道

幸福感(happiness)は喜び(joy)と同じではないが、両者は密接に結びついている。喜びは基本情動の一つであり、他の基本情動と同様にその一回の発現はほんの数秒しか持続せず、一分を超えるようなことはきわめて稀である。それに対して幸福感は気分の一種であり、気分は情動よりは長く、通常は数分から数時間持続する。気分は私たちの情動的な刺激に対する感受性を引き上げたり引き下げたりする(意識の中心を占めることのない)背景的な状態である。
例えば、私たちは幸福な気分にあるときは、良い知らせに、より愉快に反応しやすくなるのに対して、悲しい気分状態のときには、同じ知らせに対してそう強くは反応しない。不安な気分状態にあるときには、容易に怯えがちであるし、いらだった気分状態にあるときには、すぐに怒りやすくなるものである。

心理学者が生活に対する全般的な充足感について研究するとき、そこでは、あくまでも幸福感を対象にしているのであり、喜びを問題にしているわけではない。「世界幸福感データベース」をくまなく探すと浮かび上がってくるのは、物質的な富が、幸福になるための良い方法ではないということである。
満足感はお金では買えないという古くからの決まり文句が、まさに科学的な研究によって裏打ちされているようなのである。しかしながら、多くの人が今日、物質的富裕を手にすることが、あらゆる問題を解決することの鍵となるという幻想にしがみついている。だからこそ、宝くじで一攫千金の夢を見ることがこれほどまでにまかり通っているのである。

そうした夢は、もし私たちが、本当に宝くじに当たって莫大なお金を手にした人についての研究を知っていれば、これほどまでに一般的になることはないのかも知れない。それらの研究は、宝くじに当たった人のほとんどが、そうなることで素晴らしく幸福にいなったわけではないことを暴き出している。

もし物質的な富や突然の幸運が幸福感をもたらさないとするなら、幸福感をもたらすものは何ということになるのだろうか。「世界幸福感データベース」によれば、私たちをもっとも幸福にしてくれそうなものは、私たちがずっと知っていたものである。すなわち、健康を享受し、仲の良い友を持ち、そしてとりわけよい家族関係に恵まれることである。またしても、昔から言われている月並みなことがきわめて正しいということになる。

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フロー経験ーー手術

ーーーーー『楽しむということ』Mチクセントミハイ より引用ーーーーー
第8章 仕事の楽しさーー手術

手術は、職業という条件下での理想的なフロー活動の例である。外科医の仕事は明確な初めと終わりによって区切られ、日常の中に不連続に挿入される出来事である。手術は完全な集中を必要とし、直接的なフィードバックを与え、正誤の明確な判断基準を持っている。手術はその構造的特性の故に、「余暇」活動と同じく、楽しいものとして経験されると予想される。

---外発的報酬
社会的尊敬から、人の健康を回復させる満足に至るまで、外科という職業は多くの外発的報酬を提供する。しかし我々の被験者(=外科医)は、手術という活動を、自分の職業から生ずる最も大きな報酬と感じているようである。威信や金銭は人々を外科医になることに動機づけるうえで重要なものである。そしてそれらは明らかに人々をこの職業にとどまらせる基本的な誘因となっている。しかし外科医のほとんどすべてが、第一次的には手術それ自体をたのしむために自分の仕事に没頭している。

---内発的報酬
行為への挑戦と機会と楽しさ

フローは平凡な症例の場合にも生ずるが、順調に進行している「挑戦的」な、または「困難な」手術の場合に一層生じやすいように思われる。しかし、どのようなタイプの手術がフローを生み出すかは、経験、専門分野、手術の進め方、及び個人の能力により、外科医毎に異なっている。

もし何かが思うように行かないときや、手術が挑戦的なものから問題を含んだものに変化したとき、緊張、次いで不安がフロー状態にとってかわる。この変化の原因は、その外科医または手術チームのひとりの技術的失敗や判断の誤りから、患者の予期せぬ反応、あるいは、器具がこわれたり、はずれたりすることに至るまでさまざまである。

しかし反応がどのようなものであれ、それらは既にフローの状態から離れている。集中は崩壊し、自我意識が戻り、手術の満足は消失している。

刺激領域の限定

手術はそれに係わる一連の特殊な刺激や規範、行為を伴う、それ自体一つの完結した世界である。そろえはその活動が遂行され、一組の役割、制服、儀式のある特別の場ーー「手術劇場」ーーーである。

外科医が作業を進めていくに従い、極度の注意集中のため、彼は時間の経過や自分自身の体、環境や自分以外の人々を感知しなくなるようである。

目標とフィードバックの明確さ

外科医の注意集中は更に、絶え間ないフィードバックによって維持される。そのフィードバックは、手術の進み具合を彼に知らせ、従って動作の即座の修正を可能にしている。このフローの要素は手術にとって決定的に重要なものである。ほとんどすべての被験者は、日々の生活での出来事とは対照的に、手術中にはたいていの場合、為すべきことを正しく知っていると述べた。

能力と支配

何人かの高度に専門的な外科医にとっては、ほとんどの外科医が忘れることのできる時間それ自体が、支配すべき挑戦の対象の一つになる。これはフローのルールを確認するものとしては例外的なものである。優れた外科医は手術における一つの挑戦要素として、時間を操作することを身につける。彼らはもはや時間の奴隷ではない。逆に彼らは自分の目的に合わせて時間を組織する。

自我境界の超越

外科手術は他のフロー活動がしばしば生み出す超越感や環境との融合感をほとんど生まない。外科医が手術に完全に没頭し、自分の身体や同一性、個人的問題などを忘れることもあり得るが、手術に没頭していない時には、彼に課せられた重大な責任が、ともすると、いくぶん自己中心的にする、とはいわないまでも自我を意識させる。しかしまた施術者は手術チームや、その活動の持つ美的リズムに同一化する。


外科医と比べると私の仕事は外発的報酬も高くはないかもしれないけれど、それでもボディセラピストでいること、お客さまに施術するその時間というのは間違いなく私にとってのフロー活動なのだと思う。毎回時間を忘れるような集中が続くかといえばそうではないけれど、でも本当に集中しているときは時間があっという間に経ってしまうし、自分の意識ではない何かがーー手が勝手に動くようにーー施術しているという感覚がある。そして、お客さまの反応を常に見ながら、ーー生死を分ける手術ではないけれどしかしながら限りなく近い感覚でーー痛いとか気持ちいいというようなそのフィードバックをもとに施術をしていくのだ。

−−−結論

外科医に対する面接の結果は、余暇活動にみられるフロー経験が、外科の仕事の中にも存在することを示唆している。従って、仕事と余暇の二分法が不必要である以上、我々はさまざまな活動を挑戦的で楽しいものに構成、あるいは再構成することができるはずである。

人々は、もし仕事が楽しいものだとしたら、それは生産的なものではあり得ないと考えがちである。
多くのーーおそらくほとんどのーーー職業は、もしその活動が上層部の人々、または仕事に従事しているその人自身によって、フロー活動を生ずるように再構成されるならば、内発的報酬を生むように作り替えることができよう。

遊びと仕事の頑固な区別は、遊びが現実の生活では真の重要性を持たない、という仮定である。遊びにおける過ちが罰せられることはない。もしこの区別が真実ならば、フローモデルは手術には適用できなかったであろう。しかし、「遊び」がすべてうまくいく孤絶した領域でのできごとであるということは全く間違っている。我々はロッククライマーが「遊ぶ」時に、絶えず危険に身をさらすことを見てきた。多くの競技者は、日常茶飯事のように自分の体を賭ける。外科手術を含むこれらすべての活動において、危険はその活動に集中させ、行為者への技能へのフィードバックを返す手段として役立っている。それらは楽しさを妨害するものではなく、むしろフロー経験を生み出す挑戦の一部なのである。

仕事をする上で身体的な危険というのは感じることはないけれど、でも毎回これで勝負だ!みたいな感覚になることはあるかもしれない。お客さまが次回またご来店してくださるかどうかは、今回のこの時間いかにいいセッションをするかにかかっているわけで、そういう意味では毎回スリリングだし、毎回同じ人でもカラダの反応は違うので、不確定要素が強いという意味でもフローを起こしやすいのかもしれない。そういう仕事ができて、仕事の中でその要素があるというのは幸せなことだなと思う。


いずれのフロー活動も習慣形成的なものになり得る。チェスの優勝者の多くが一度最高位を窮め、習慣化された挑戦の機会を奪われると、とたんに腰くだけになることが知られている。この種のほとんどすべての活動について、同じようなことを聞く。ある活動への参加者が、まだ完全にフローに没入しているときでさえ、特定の狭い挑戦に依存するようになり、他のすべてのことが楽しくなくなることもある。チェスをしたり、ロッククライミングをしている時にのみ生き生きしているというkとは、人間の適応上あまり好ましいこととはいえない。従って、人はいくつかの異なった領域での技能を磨くべきであろう。このことにより、人はさまざまな環境の中でフローを経験できることになる。

フローの中毒性を持つという特性と、超社会的思考を生む可能性とは、表裏一体の関係にある。
深いフローの世界の単純な美は魅惑的にすぎるので、何人かの人々は日々の生活での安定した地位を放棄し、フロー活動の閉鎖的な世界へと引きこもってしまう。これが生ずるとフローの建設的可能性は失われる。
しかしこれらの危険性は、内発的動機づけの持つ力を確証するにすぎない。すべての形式の動機づけと同様、フローは危険な資源である。しかし、もしその利点が外発的報酬をしのぐならば、それは我々にとって、一つの無視することのできない資源なのである。

確かに、何か一つのこと、それだけがフローになれる手段だっていうのは、麻薬みたいなもので危うい感じはする。仕事や遊びにこうした集中が起こるとどんなに素晴らしいか、どうしたらこういうフロー状態になれるのだろうか?そもそもフローとは?というところからこの本を読み始めた。

このチクセントミハイという著者が原典で、そこからたくさんの関連本が今は発行されている。本の中では日常の中での小さなフロー体験を「マイクロフロー」と呼んで、通常のフローとは区別しているけれど、仕事の中でも日常生活の中でも、積極的な楽しさを得るという意味でこのフローという感覚は大切にしていきたいなと思った。

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フロー経験ーーロッククライミングを中心に

ーーーーー『楽しむということ』Mチクセントミハイ より引用ーーーーー
第5章 ゲームの楽しさ チェスより

フローを生み出す他のさまざまな方法がわかれば、我々は逆に、なぜ平均的な生活経験はそれ自体として楽しくないのか、ということも理解されてくる。一つの理由として、デューイの経験についての定義ーー明瞭な認知的情緒的な解決を与えるはじめ、中、終わりの相互作用の連続ーーによれば、ほとんどの生活は経験すら構成しないということがあげられる。実際の「経験」においてすら、フロー経験は稀であり、現実の生活について、挑戦が個人の技能に適合していることを確かめる手だてはない。

日常生活においてフローを体験することは難しいために、チェスのようなゲームや宗教的儀式のような限定的なシチュエーションを用意することでフローを感じやすくすることができる、、、ということだな。

第6章 ロッククライミングにおける深い遊びとフロー経験より

身体的危険を含み、これといった外発的報酬がないことから、ロッククライミングは特殊な部類に属するフロー経験の好例である。更に、クライミングという人為的でありながら世俗から隔離された世界は、それ自体行為者にとって、日常生活での現実以上に意味のある現実性を帯びることができる。

フリーダイビングもまさにこれと同じじゃないかなあと思う。以下文章もそう変換し直して読むととても身近で興味深い。

フロー経験の特徴

行為への挑戦の機会
ロッククライミングはーー容易なものから困難なものへの進歩という意味で「垂直的に」、またチェスのように行為者がさまざまな次元で活動に参加できるという意味で「水平的に」ーー無限の行為への挑戦の幅を持っている。
多くの場合、クライマーは自分の技能水準に最も適した挑戦水準を、事前に選んでおくことができる。更にそれぞれのクライミング段階の中でも、潜在的な選択の多様さは無限である。同じ岩場での2回のクライミングが全く同じであるということは決してない。
クライマーはクライミングを安全に成功させるという自明の目標に、新たな目標を付加することによって、慣れたルートをもう一度複雑なものにすることができるであろうし、他者の能力をその限界にまで引き出してやることもできよう。
人が客観的により高い段階へ進むことを選ぶにせよ、一定の技能水準でより美的、情緒的な達成を選ぶにせよ、クライミングは不断の新しさを提供する。

良質のフロー活動は、あらゆる形式の深い遊びと同様、挑戦水準の選択を支配することーーーいわゆる「勝算」の計算ーーーがきわめて重要であるが、同時にその過程に、ある程度の不確かさが潜在していることも必要である。

 例えばフリーダイビングのスタティック練習のとき、いつもは2分余裕で息止めできるけど、今日はターゲット練習で自己ベストを狙おうっていう日もあれば、いかに2分半、苦しくない時間を増やすか、という目標を立てることもある。同じ練習でもそうして目標を変えることで、いろいろなフローパターンを作っているということだろう。また、体調や気分のよさで息の持ち方はまったく違ってくるから、そういう意味では不確かさというのもそこには存在する。

限定された刺激の場への注意集中
普通の日常生活とは対照的に、ロッククライミングという行為は狭く単純化されており、精神的に凝縮されている。ロッククライミングを構成するこれらの要素は、個人が意図する行為や、心に抱く感情や思考などのすべての中からーーー岩に登るというーーー当面かかわりのある狭い部分のみを限定する。クライミング以外の生活上のさまざまなものごとは、関係のないもの、心を乱すものとして放棄され遮蔽される。岩と取り組むために要求される心身の状態は、日常生活からの刺激を遮断するついたての役を果たしている。

ほとんどの形態の深い遊びと同様、ロッククライミングでの強い注意集中と注意領域の限定は、その活動に知的に関与する側面に、危険が加わることによって完全なものとなる。ロッククライミングにおける物理的危険は、被験者がそれに対してどのような結果論的意味づけをしようとも、原則的には当面する状況に対処するための、一つの強制的動機として機能する。注意集中のゆるみや日常生活への顧慮は、それがいかなるものであっても常に遭難の可能性を秘めている。

 集中してないと命が危ない!ってことだよね。フリーダイビングもそういう意味では同じ。
 他にも大波に挑戦するサーフィンだとか、エアを決めるモーグラー、滑降選手なんかも同じものがあると思う。こういうものを”深い遊び”と言ってるんだろう

有能さと支配の感覚
「たしかに危険はあります。しかし、車の運転にくらべて、それは綿密に計算された上での危険なのです。自分がかかわる危険と自分自身の経験とを関連づけることによって、自分がとるべき予防措置の数と種類の見当をつけるのです。この予防措置を講じていれば、自分や環境を支配していると感じます。予想を超えたちょっとした未知の要素は常にあるものですが、それはどうすることもできません。だからそのことを心配することなどできないのです」

明瞭で直接的なフィードバック
クライマーは自分の行為に対する支配を感じるとき、「うまくいっている」事を知る。他方、恐れが目覚めると、自分が「うまくいっていない」という信号、及び調節を必要とするという信号が直ちに発せられる。通常のクライミングの全過程を通して、異なる強度の「支配」対「恐れ」という差動信号によって調整される。このフィードバックのループは絶えず働いている。クライマーが稀に深いフローチャンネルに入る瞬間には、支配の感覚が予測したところまで強まり、安定する。

支配=状況をコントロールしているっていうことかな。すべてがうまくいって流れるように事が進む、そしてそれがちゃんとわかっているということが大事なのか。


行為と意識の融合ーー自我境界の超越
適度な難度の場合には、行為は次の行為へと連続的に水のように流れ、行為者は自分を外から眺めることによる意識の乱れに邪魔されることはない。

行為と意識の融合に大きく関係し合うのは時間の感覚の変化、つまり実際の時間と心理的時間感覚の不一致である。自我意識が減少するフロー経験においては、クライマーはいずれも時間の痕跡を失っている。深いフロー経験のこの時間的側面は「永遠の時間」という矛盾形容法で特徴的に述べられている。

ほとんどのクライマーは、フロー経験の形式的、感情的特徴が低い水準でいくつか入り交じったものを一度か二度は経験している。深いフローや幻想的経験は誰に聞いても稀にしか起こらない。

ここまでくれば素晴らしい。でも楽しいと時間があっという間に過ぎてしまうし、苦しいときつらいときは1分がとてつもなく長く感じたりする。最近ジョギングしながら時計をよく見てしまうけど、あと3分と思ってもキツくて15分くらいに感じたりして。

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フロー経験の要素

ーーーーー『楽しむということ』Mチクセントミハイ より引用ーーーーー

フロー(flow)=全人的に行為に没入している時に人が感ずる包括的感覚

第4章 楽しみの理論モデル

フローのもっとも明瞭な特徴は、おそらく行為と意識の融合ということであろう。フロー状態にある人は二重の視点をもつことはない。彼は彼の行為を意識してはいるが、そういう意識そのものを更に意識することはない。

意識が行為から分離しはじめると、人はその活動を「外から」眺めることになり、フローは妨害される。このことから、フローを瞬時の妨害もなく、長時間継続することは困難である。

フローは遂行すべき要素が、人の遂行能力の範囲内にあるときにのみ生ずるようである。儀式やゲーム、またはダンスなどの行動芸術のように、行為のルールがはっきり確立している活動において、最も頻繁にフローが経験されるのはこのためである。

行為と意識の融合は、フロー経験の第2の特徴、つまり限定された刺激領域への注意集中から生ずるのであろう。自分の行為への注意の集中を確かなものにするためには、邪魔になる刺激を注意の外にとどめておかねばんらない。何人かの研究者はこの過程を「意識の限定」「過去と未来の放棄」などと呼んできた。(マスロー,1971)

フロー経験の第3の特徴は、「自我の喪失」「自我忘却」「自我意識の喪失」であり、「個の超越」「世界との融合」とすら表現されてきたものである。

ーーーロッククライマーの例

クライマーはともすると、自分の身のまわりに起こっていること、つまり岩や、、、手がかりや、、、体の正しい位置を探し出す動きに浸りきってしまいます。すっかり夢中になっているために、自分が自分であるという意識がなくなり、岩の中に溶け込んでしまうのです。

いろんなことが「自動的」に進むようになると、、、ある意味ではほとんど自我のない状態になってーーーどういうものか考えることなしに、また全く何もしないのにーーー正しくことが運ばれる、、、。とにかくそうなってしまうのです。それでもふだんより気分が集中している。禅が精神の集中であるように、これは瞑想のようなものでしょう。やらねばならないただ1つのことは、心を一点に集めることです。何者かに到達するために精神の焦点を結ばせる能力が大切です。


フロー状態にある人のもうひとつの特徴は、彼が自分の行為や環境を支配しているということである。
支配の感情と、その結果生ずる不安感の欠如は、危険が行為者にとってまさに「客観的」現実そのもであるフロー状況においてすら存在する。ロッククライミング及びそれに類した活動に危険が実際伴うとしても、それは予想し得るものであり、従って、予知し、支配しやすいものである。支配の感覚は「客観的」な評価がこの感覚を正当化するかどうかは別として、あらゆるフロー経験の最も重要な要素である。

フロー経験の次の特徴は、その経験が通常首尾一貫した矛盾のない行為を必要とし、個人の行為に対する明瞭で明確なフィードバックを備えているということである。

最後の特徴は「自己目的的」な性質である。言い換えれば、明らかにそれ自体のほかに目的や報酬を必要としないということである。

フロー状態のモデル
flowmodel.jpg

心配の状態にある人々は、2つの基本的な方向を持つ過程の、ほとんど無限な組み合わせを通してフローに戻ることができる。つまり、挑戦の水準を下げるか、技能の水準を高めるかである。もし後者を選ぶならば、その結果としてのフロー状態はより複雑なものとなる。なぜなら、それはより多くの挑戦の機会と、より高い能力水準とを含んでいるからである。逆に、もし退屈しているならば、環境側の挑戦水準を高める手段を見つけることによって、または自分にハンディキャップを課したり、技能水準を下げることによってフローに立ち戻ることができる。

---フロー(時間を忘れる楽しい状態)から外れたときはこの基本から外れているってことなのかな?でもまずはフローに入るのが大変なんだよね。退屈してるっていうのは、要するに自分の楽しさの基準より低いところにいるからってことなんだな。
ちなみにこのモデルは最初のもので、現在はいくつか別のもう少し複雑なモデルで図式化されている。それに関してはまた別の機会にメモしようと思う。


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