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幸福感を得るためにーー気分操作の方法3ーー

ーーーー『感情』ディラン・エヴァンズより引用ーーーー
第3章 幸福への近道より

気分操作の身体的技法

瞑想は、私たちが自らの情動状態を調整するために発明した、最も安全な方法の一つかもしれない。瞑想の東洋的な形式は、精神を空っぽにし、規則正しく呼吸しながら長い間ただ座っていることを必要とするのであるが、それは、西洋でより最近になってから発達したリラクゼーションの方法と多くの点で似通っている。ここでもやはり、今日、新しいといわれるセラピーが、実のところ、何千年も前に最初に発明されたやり方を、ただ科学的に見せかけたものにすぎないということがわかる。

瞑想やリラクゼーションにおいて、情動状態を落ち着かせる効果は、カラダからのフィードバックによって成し遂げられる。リズミカルな呼吸や筋肉のリラックスした状態を、脳は穏やかな気持ちの生成に資するものと解釈するのである。他の気分も、異なる種類の身体の動きや姿勢によって引き起こされ得る。足早のジョギングは、幸福感にあふれた精神状態を誘発するし、また、ある情動に対応した顔の表情をすることは、その情動自体を感じさせることになる。情動を引き起こすこれらすべての方法を、情動の身体的技法と考えることができよう。

ウィリアム・ジェームズが1882年に指摘したように、こうした情動の身体的技法が存在するということあは、情動についての私たちの常識的考えの一つに疑問を投げかける。常識的な見方によれば、情動は身体的な動きに先立って現れ、その動きを引き起こすものということになる。例えば、熊を見て逃げるという例をとってみて考えてみたとき、ほとんどの人は、おそらく、熊が見えたことで恐れを感じ、そしてその恐れを感じたことで、今度は走ったのだと言うだろう。しかし、落ち着いた気持ちを得るために瞑想を用いたり、より幸福な気持ちを感じるためにジョギングをしたりするというとき、事はあべこべになる。この場合、情動を引き起こすのは身体の動きであり、身体の動きを引き起こすのが情動ではないのである。

心が身体に働きかけるのと同じように、身体が心のに働きかけるフィードバックのメカニズムが存在するのである。あらゆるフィードバック・ループにおけるのと同じように、それは増幅作用を生み出す。ジェームズは心の「共鳴板」としての身体について述べている。それは、ギターの共鳴箱が元の響きを増幅させるように、情動のシグナルを反響させるのである。これこそが、「自らの身体を奮い立たせる」ことで明確な情動状態を創り出すという私たちの能力を説明するものなのである。

逆に、情動の身体的技法が明らかにしているように、このフィードバックの仕組みによって、私たちは、通常ならば自動的に生じる身体的変化を故意に抑制したり、意識的に他のことをしたりすることで、自らの情動を何らかの形でコントロールすることができるようになるのである。

もちろんそこには限界がある。単に無理矢理笑顔を作ることだけでは、おり大きな幸福感が得られるわけではない。これは情動的な表情に関わる多くの筋肉が、随意的コントロールの及ばないものだからである。例えば、あなたが自発的に笑うとき、眼輪筋(目を取り囲む筋肉)は両側に収縮し、頬をつり上げ、肌を鼻に向けて内側に引き寄せる。この筋肉は随意的コントロールを容易には寄せ付けないものであり、だからこそ、通常、偽りの笑顔と本物の笑顔を区別することはきわめて容易なのである。単に両口角を引き上げ、唇をカーブさせるだけでは、完璧な喜びの表情は生まれない。つまり、そうした表情をつくっても、あまり喜びが誘発さえることはないということである。

しかし、随意的なコントロールができる筋肉とそうでない筋肉の差異はさほど堅固なものではない。ヨガやバイオフィードバックのような技法を使うことで、人は、通常ならば不随意的なものである自律神経系の働きに意欲的に制御を加え得るようトレーニングすることができる

たくさんの気分操作のための身体的技法は単に気分に対して短期的な効果をもたらすだけではない。それらはまた長期的に私たちの人生の見通しをも明るくしてくれる。少しの間走ることは、単にちょっとした興奮をもたらすものでしかないが、毎日そうすることで健康が全般的に促進されるだろう。ちなみに、そうした健康状態こそが、生活に対する全般的充足感を最も説明する変数の一つなのである。一般的にスポーツはさまざまな気分の身体的技法をもたらし得るものと考えられている。短期的な幸福感を高める代わりに長期的な幸福感をすり減らす薬物とは異なり、情動の身体的技法は短期的にも長期的にも私たちに益をもたらしてくれるのである。

幸福感への近道を選ぶ際、私たちは気分操作のさまざまな技法の中からたった一つだけを選び出すという厳しい選択を強いられるわけでは必ずしもない。私たちは、選び、また混合する。すなわち、自分の好みと価値観に応じて、複数のものを結び合わせるのである。

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幸福感を得るためにーー気分操作の方法2ーー

ーーーー『感情』ディラン・エヴァンズより引用ーーーー
第3章 幸福への近道より

色の使用と音楽

色が私たちの情動に直接影響を与えることはめったにない。自閉症などの心的障害においては、まだらな色を見るだけでパニックが引き起こされることもあり得るが、多くの健常な人においては、色は気分に影響を与えることを通して間接的に情動に影響を及ぼすのである。

さまざまな色が、心地よいイメージを生み出すよう配置され得るように、多様な周波数を有する音もまた魅力的なメロディーを生み出し得るようアレンジされる。視覚的な絵画と同様に、音楽もまた、ただ純粋に愉悦をもたらすために、私たちの近く能力に直接訴えかけるよう設計された技法である。

皮膚接触の情動的な効果

他の人に優しくなでられることで脳内に天然アヘンが放出され、それがくつろいだ気分に結びつく。このことの進化論的な根拠は、人とチンパンジーの最後の共通祖先にとってグルーミング(毛づくろい)が重要であったことは、現代のチンパンジーが一日に何時間もかけて互いの毛からダニを取り除いている様を思えば、充分に考え得ることである。
私たちの進化した触覚的好みがマッサージの基礎となっている。マッサージは音楽や美術と同じく、歴史の古い技法である。

わぉ!天然アヘンですか。でも基本的に、肌と肌が触れあうことが気持ちいいものでなければ、人間は繁殖しなかったわけだから、当然といえば当然?けれども、この皮膚感覚がいろいろな要素(たとえば凝りがあるとか冷えているとか)で感じなくなってしまうこともあって、そういう人はきっと感情的にもいろいろなものを溜め込みすぎて、情動が出にくい状態になているということも考えられるよね。

味覚操作と薬物

味覚にかかわる気分操作の技法はもちろん料理である。料理は、自然の風味を増幅させ、「超刺激」の域まで高め、私たちの味覚芽を、自然がそうしえきた以上により魅惑的にくすぐるのである。
しかし、ここで自然選択は、それがもともと準備した紆余曲折の道筋には従わず、あえて幸福感への近道を進もうとする私たちに対して、ある仕返しをする。それは、私たちにブドウ糖を見つけるための安上がりで単純な仕組み、すなわち甘いものへの好みを与えたことで、私たちが自らの健康にふさわしい量以上にそれを欲してしまう危険な状態をつくりだしたのである。

今日では糖分は、スイーツと呼ばれる濃縮したかたまりで口に入り、わたしたちのそれに対する強烈な欲望は健康に深刻な問題を引き起こしている。肥満は現在、多くの豊かな国において流行病なみに増えてきているが、これは多量の糖分や脂肪を欲する進化的に準備された欲求と、料理という名の新しい技法が久美合わさったために生じてきたものなのである。

味覚に関わる気分操作の技法は、私たちの味覚芽を刺激したり、あるいは、その後の消化プロセスに他の科学的効果を及ぼしたりすることを通して、良い気分を誘発しようとする。

チョコレートは、糖分を含むほとんどの食物や飲料がまさにそうであるように、きわめて効率的な気分増幅器なのである。しかし、研究結果が示すところでは、たいがいの人は、チョコレートを食べた直後、よりポジティブでエネルギーに溢れているような気分になるのだが、この効果はすぐに弱まり、一時間後には、最初にチョコレートを食す前の段階よりも、ずっと悪い気分になってしまいがちなのである。お茶やコーヒーにも同じことが言え、それらもたしかに、ほんの短時間、気分を良い方向に増幅させるが、その後はそれよりも少し長い時間にわたって、気分を悪い方向に引き下げてしまうのである。ほとんどの薬物もまたしかりである。

それでころか食物と薬物との線引きはかなり恣意的なものであり、今日でさえ、薬物を、私たちが消費する他のさまざまな種類の物質から区別する充分な科学的基礎はいまだに存在していないのである。私たちは、栄養や味覚上の効果を期待してではなく、主に向精神作用を期待してあるものを摂取するとき、それを薬物という傾向がある。しかし実際のところ、ほとんどの種類の食物や飲料は心の状態になにがしかの影響を及ぼすものなのである。例えばカッテージチーズやチキンレバーには、脳がセロトニンと呼ばれる化学物質を作る際に必要となる高レベルのトリプトファンが含まれているが、この物質はいったん摂取されると人に良い気分をもたらすのである。
薬物は、食物とは完全に独立したカテゴリーとみなすよりも、むしろ、食物の延長線上の極に位置するとみなしてしかるべきものである。

よく考えたらものすごいことを書いてあるような・・・。チョコレートも薬物も効果は同じようなもんだ、ということだよね?でも確かにこの甘いものへの嗜好っていうのは中毒に近いものがあるような気がする。実際私も砂糖はなかなかやめられない。カフェインは特になくても大丈夫だけれど、砂糖なしで1週間、、となると、最初はキツそうだし、そもそもそんなのやりたくない!っていう感情的な拒否反応がありそうだ。でも不思議なことに、最近運動を定期的に始めたら、前ほど甘いものへの執着が減ってきたようにも思う。そっちで脳内麻薬が出てるから甘いものへの依存が減って来ているってことなのかなあ??

薬物という化学的経路

薬物は、幸福感へとつながる、おそらく最も直接的な近道である。重篤な抑うつに悩む人においては、そうした化学的経路こそが、まさに唯一のものとも言えるかもしれない。

気分を変える薬が、抑うつ患者にプロザックが処方されるときのように治療目的で用いられるにせよ、パーティ好きの者がエクスタシーを飲むときのように、気晴らし目的で用いられるにせよ、そこで生じる化学的作用は同様のものである。プロザックもエクスタシーもセロトニンのレベルを引き上げる働きをしている。こうしたことから、ある人たちは、セロトニンが気分の化学的基礎をなしていると考えるに至っている。このような理論に従うならば、脳内のセロトニンが高レベルにあると私たちは良い気分になり、一方そのレベルが下がると落ち込むことになる。しかし、こうした単純な仮説は、すべての証左と符合するものではない。
実のところ、気分の化学的起訴の詳細がいかなるものであるのか、また、抗うつ剤がどのような仕組みで作用するのかといったことについては、あまりよくわかってはいないのである。

ドーパミンノルアドレナリンといった、セロトニン以外の脳内化学物質も、気分の変化においては重要な役割を果たしている。それゆえに、こうした化学物質に作用する薬物も、情動状態を変化さえるのに用いられ得る。コカインやアンフェタミンは、脳内のドーパミンやノルアドレナリンのレベルを引き上げるわけであるが、そのため、これらの薬物には人を多幸的にする作用があると考えられる
しかしクロロプロマジンのような他の薬物も同じような作用があるものの、それらには同じような瞬間的な多幸作用はないのである。

ほとんどの気晴らしを目的とした薬の効果は、短期的なものであり、ハイな状態は比較的すぐに終わり、その後、はっきりと不快な落ち込み状態が続くことになる。最初の効果が薄らぐ前に、また薬を服用することでハイな状態を維持することが可能であるが、そうしてハイな状態を長く維持すればするほど、やがて襲ってくる落ち込み状態は最悪のものとなる。落ち込み状態が来るのを無限に先に引き延ばそうとして、ハイな状態を長く続けるために薬を飲み続け、ついには中毒症状に陥る者が出てくる。そうしたケースにおいては、薬の習慣を維持することだけが、生活の中における唯一、価値ある活動になってしまい、他の全てのことが無意味化してしまう。

わたしは、マジックマッシュルームとか葉っぱ系のものは一度も試してみたことはない。そういうものが蔓延して手に入りやすい国には何度も行ってるけど(笑)カフェインにすら劇的な効果をもたらす私なので、(全然眠れなくなる!)そういうキツい薬物は、摂ったら空恐ろしいことになりそうな気がして怖くてやれない。(いや、それはもちろん正しい選択だ!)

あと、その終わったあとの気分の落ち込みなんて絶対体験したくないというのがひとつあるのと、もうひとつ、何人かわたしのまわりで抗うつ剤のような薬物を処方されたことのある人がいて、その人が昔「ものすごく悲しかったりつらかったりするはずなのに、薬の効果で何故か本当に気分がよかったり、幸せな気持ちになるんだ。じゃあそんな化学物質で物理的に変化してしまう人間の感情って一体なんなのだろう?」というようなことを言っていて、その深い問いかけの答えを私は未だに見つけられずにいる。だからこそこういう本に興味が出てくるのかもしれない。

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幸福感を得るためにーー気分操作の方法1ーー

ーーーー『感情』ディラン・エヴァンズより引用ーーーー
第3章 幸福への近道より

気分操作について私たちの祖先が最初に発見した技法は言葉であった。ここでは慰めること、楽しませること、「発散する」ことの3つについて述べようと思う。

慰めること

私たちの祖先は、話し方を身につけるまでの長い間、おそらく抱きしめたり優しくなでたりすることでお互い慰めあっていた。しかしいったん言葉が発明されると、かれらは同情や忠告の言葉をかけることで慰めるという新しいやり方を見つけたのだと考えられる。そうするうちに、彼らは言葉が強力な抗うつ剤になりうることを発見したのである。こうしたやり方はとても長い間私たちの身近にあったので、今やもうほとんど本能的なものになっている。

アーロン・ベックが1960年代に始めた認知療法という心理療法の一形態は、まさにこの種の内的独言に基づいている。
人にその人自身のネガティブな思考を特定し、それとポジティブなものとを入れ替える方法を教えることによって、認知療法のセラピストは、人が情動の奴隷ではなくて支配者になれるよう試みる。悪い気分をもたらしている思考を取り除き、楽しい気分を促進するような思考を積極的になし得るように訓練することで、私たちは自らの情動の状態を制御し、完全なる意志の力をもって憂うつな気分から脱する術を手に入れられるであろう。しかしこれはいつでも可能なことではないかもしれない。
ときに、情動があまりにも強烈であるため、代わりとなる思考を抱けないようなこともある。

もちろん認知療法は単に表面的な示唆を与えるものではなく、むしろネガティブな思考を特定し、除去するための具体的テクニックを教えるものでもある。熟練したセラピストによって行われるときには、それは抑うつに対処する上でプロザックなどの薬と同じくらいに有効であり得る。しかしながら、その実際の効果はセラピストのアドヴァイスよりも、むしろ(それに随伴して与えられる)同情の表現によるものではないかと考えている。

楽しませること

誰かを元気づけるためのもう一つの言葉の使い方は、おもしろい話をしたりジョークを言ったりすることである。話(story)というのは、本来、私たちの社会的な情報に対する、特別に進化した欲求に訴えかけるものであるが、たとえ、その話が真実ではなくても、その欲求はなんとか満たされるものである。

「発散」すること

発散とは、不快な情動が消えてなくなるように、それらについて語ることである。言葉による慰めおよびお話やジョークによる楽しみは、言葉そのものと同じくらい古い起源を有する可能性があるのに対し、発散はかなり最近になって創り出されたものといえる。それは、不快な情動を取り除くという明確な目的を持った言葉の使用である。

しかしこの後、フロイトが発祥のこのやり方は、時には危険なこともあるという展開がされる。

言語は、幸福感へと至る最も効果的な近道ではないようである。よく選びこまれたいくつかの言語はときに慰めをもたらしてくれるかもしれないし、また巧みなジョークはどっと笑いを引き起こしてくれるかもしれないが、こうしたことが、重篤な抑うつを癒すほどまでに充分であることはめったにない。また自分自身の悪い情感について語ることが、いつも気分を好転させるための最良の方法とは限らないのである。こうした理由で人は常に言葉それだけよりも幸福感により素早くまた安全に至り着く近道となる、他の気分変容のための技法を探し続けているのである。

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幸福への近道

ーーーー『感情』ディラン・エヴァンズより引用ーーーー

第3章 幸福への近道

幸福感(happiness)は喜び(joy)と同じではないが、両者は密接に結びついている。喜びは基本情動の一つであり、他の基本情動と同様にその一回の発現はほんの数秒しか持続せず、一分を超えるようなことはきわめて稀である。それに対して幸福感は気分の一種であり、気分は情動よりは長く、通常は数分から数時間持続する。気分は私たちの情動的な刺激に対する感受性を引き上げたり引き下げたりする(意識の中心を占めることのない)背景的な状態である。
例えば、私たちは幸福な気分にあるときは、良い知らせに、より愉快に反応しやすくなるのに対して、悲しい気分状態のときには、同じ知らせに対してそう強くは反応しない。不安な気分状態にあるときには、容易に怯えがちであるし、いらだった気分状態にあるときには、すぐに怒りやすくなるものである。

心理学者が生活に対する全般的な充足感について研究するとき、そこでは、あくまでも幸福感を対象にしているのであり、喜びを問題にしているわけではない。「世界幸福感データベース」をくまなく探すと浮かび上がってくるのは、物質的な富が、幸福になるための良い方法ではないということである。
満足感はお金では買えないという古くからの決まり文句が、まさに科学的な研究によって裏打ちされているようなのである。しかしながら、多くの人が今日、物質的富裕を手にすることが、あらゆる問題を解決することの鍵となるという幻想にしがみついている。だからこそ、宝くじで一攫千金の夢を見ることがこれほどまでにまかり通っているのである。

そうした夢は、もし私たちが、本当に宝くじに当たって莫大なお金を手にした人についての研究を知っていれば、これほどまでに一般的になることはないのかも知れない。それらの研究は、宝くじに当たった人のほとんどが、そうなることで素晴らしく幸福にいなったわけではないことを暴き出している。

もし物質的な富や突然の幸運が幸福感をもたらさないとするなら、幸福感をもたらすものは何ということになるのだろうか。「世界幸福感データベース」によれば、私たちをもっとも幸福にしてくれそうなものは、私たちがずっと知っていたものである。すなわち、健康を享受し、仲の良い友を持ち、そしてとりわけよい家族関係に恵まれることである。またしても、昔から言われている月並みなことがきわめて正しいということになる。

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