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瞑想中の反応いろいろ

ーーーー『宇宙の根っこにつながる生き方』 天外伺朗より引用ーーーー
第4章 かんたん瞑想で身も心もすっきりする 

瞑想中の望ましい反応

1. 手足などの体の一部、あるいは体全体が軽くなった感じ、もしくは存在しないような感じになります。透明になったような、あるいはビリビリとしびれるような感じになります。

2. 心身がゆったりとくつろいだ感じ、体が温かく包まれている感じになります。気持ちがよく、至福感にあふれてきます。

3. 脈拍がゆったりとして楽になります。

4. 呼吸がゆったりと穏やかになります。最終的には、自然に呼吸筋が動かなくなります。


瞑想中にともなう正常な反応

1. 唾液が大量に出ます。

2. 悲しくもないのにわけもなく涙が出てきます。

3. 皮膚がむずむずしたり、かゆくなったりします。(かゆくなったらかけばいいし、我慢する必要はありません)また、お腹がゴロゴロいいます。

4. 心臓の鼓動がドキドキ強く感じられます。(鼓動が速くなるということではありません。速くなるのはよくない反応です)

5. せきが出ます。悪いところが痛くなります。(胃腸が悪い人はお腹が、膝が悪い人は膝が痛み出します)

6. 体の一部がピクッと動くことがあります。あるいはガクガクと震えがきます。極端な場合は体が勝手に動き出します。(これらはすべていいことです。ストレスの解消を体が自動的にやっているわけで、心配する必要はまったくありません。体が勝手に動きだすことを気功法では「自発動功」といいます。ストレスの解消がある程度進めば、体が動かなくなります。本当の瞑想はそこからはじまりますあ。)

7. 瞑想中の反応ではありませんが、瞑想をはじめるようになると、朝早く目覚めるようになります(瞑想をすることによって睡眠の何倍かの休息がとれ、自然に睡眠が足りて目が覚めるわけで、少しも心配はいりません)

8. 瞑想直後に軽いめまいを感じます。あるいは頭に軽い圧迫感が残ります。記憶がすこしおかしくなり、かんたんなことが思い出せません。(だいたい30分で復帰します)

うーむ。要するに自律神経系の活動がすごく活発になるということだよね。そしてこの反応はクレニオセイクラルをやったときに非常に似ている。とくに6は本当にかなりの人が起こす反応で、手足がピクっと動くことはいいことされているし、こないだはクレニオのセッション中本当に体がすごい勢いで動きだして、ストレッチしてるみたいな感じになったりだとかということもあった。

あと、7はいいなあ。私はまだ朝早くに起きられない。朝型の生活にしたいしたいと願いながらもなかなか睡魔に勝てない。でも今は瞑想を毎日やってるわけじゃないので、これを習慣にしていって、気がついたら自然に朝型になっていた、というふうになっているといいな〜

瞑想をストップしたほうがいい症状

1. 頭が締め付けられるような強い頭痛がきたり、悪寒や吐き気、もしくは腹部に強い圧迫感が来る

2. 脈拍がどんどん速くなってくる。正常な状態では脈拍はしだいに遅くなっていきます。

3. 息苦しくなったり、呼吸がどんどん速くなる

4. 原因不明の恐怖感を覚えることがある

5. 霊界に入る(幽霊が見えたり、息吹が聞こえたりします)


以上が好ましくない反応です。こういう反応がでたら、5以外の場合は、すぐに瞑想をやめ、横になってゆっくり休んでください。

そして次にやるときは、少し時間をおいてやったほうがいいでしょう。そのときも、事前の体操にもっと時間をかけたり、あるいはジョギングなどでもっと体を動かしておくことが必要です。また、深呼吸をもう少し長くし、体も徹底的にゆるめます。というのは、体のどこかにこわばりがあるときにこのような好ましくない反応が起こりがちだからです。要するに瞑想の前の準備にもう少し時間をかけることです。

フロイトの弟子のひとり、ライヒは、人間はいろいろなストレスを受けると、それが筋肉の緊張となって残り、精神的な障害の原因になると考えました。彼は、この筋肉の緊張を「性格の鎧」と呼んでいます。過去に受けたストレスが鎧のように筋肉の緊張となって残り、その人の性格を形成しているというわけです。

成人なら、誰でも多かれ少なかれ「性格の鎧」をもっており、体にさわってみると、その人がこれまで受けたストレスの程度がわかるといいます。ということは、体をほぐすこと、つまり鎧を破壊することがストレスの解消につながるということです。その方法がボディワークです。今世の中にあるボディワークのほとんどは、ライヒの理論から出発しています。

人生の歪みが、ライヒのいうように体のどこかにきている人は、瞑想をしても快い瞑想にはなりません。体の緊張をほぐす必要性はそこにあります。
現代人は運動不足で、バランスが悪くなっており、瞑想だけをやると、「好ましくない反応」が起きがちです。ですから、そういう反応が起こる人は、事前になるべく思い切り体を動かしましょう。ヨーガや気功法をきちんとやってみるとか、ボディワークをきちんと受けてみることをおすすめしたいと思います。

「性格の鎧」か。鎧とは非常に言い得ている気がする。本当に鎧みたいになっている人いっぱいいるもん。すごい筋膜が緊張して張っていて「奥には絶対入れさせない!」と主張しているカラダ。筋肉の奥のほうになんて絶対どれだけ力を入れても入らない。からだをさわるとある程度その人のストレスレベルがわかるというのもとても納得。体格だとかからだの状態を見たら、だいたいその人の性格とかもわかる。からだの特徴が、すなわち性格上の特徴。違っていることは今までの中ではひとりもいない。ちなみにこのライヒという人について調べてみたら、結構すごい人生を送っていて、そういう人がこの理論を打ち立てたのかと思うと非常に興味深かった。


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ちなみに、この天外さんという方は、実は非常に技術畑の方で、ソニーの取締役をつとめ、CDの開発者だったりAIBOを世に送り出したりした人らしい。そういう方がこういう宇宙の話、瞑想の話をされるっていうのがすごく面白いなと思った。最近読んだ本に『イーグルに訊け』という本があって、その作者だったので読んだのだけど、全部が全部”納得!”というわけではないけれど、なるほどな〜と思うところがあったのでメモしてみた。

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瞑想と脳内麻薬

ーーーー『宇宙の根っこにつながる生き方』 天外伺朗より引用ーーーー
第4章 かんたん瞑想で身も心もすっきりする 

脳内麻薬を出すのが瞑想の目的

瞑想法というと、日本では座禅が有名です。ほとんどの宗教は何らかのかたちでこれを取り入れていますし、気功法の静功や、武道の鍛錬のなかにもみられます。それぞれがさまざまな方法論を説いていますが、いずれもいかに心身をリラックスさせ、雑念をはらうかということを、瞑想状態に入るためのテクニックとしています。

瞑想が深くなると、人間の脳の中で「脳内麻薬」物質が分泌されることが知られています。分子構造はコカインやヘロインなどの麻薬に似ていますが、人間の体のなかで生成するものですから、麻薬のように神経がボロボロになってしまうような副作用もありません。瞑想をすると、大変気持ちがよくなったり、幻覚を見たりすることがあるのは、この物質のおかげです。

なぜ、この物質のおかげでそういうことが起こるのでしょうか。人間の脳の前頭葉に、エーテン(A10)神経と呼ばれる神経があります。人間の創造性や快楽を刺激する神経です。たとえば、「楽しい」とか「わくわくする」といった気分のときは、このエーテン神経が興奮しており、人間にやる気や創造性を発揮させます。そして、この神経を興奮させるのがβ-エンドルフィンなどの「脳内麻薬」なのです。

瞑想を行うと、この「脳内麻薬」が分泌され、ホンワカと気持ちよくなってきます。それがもっと高じると、「意識の拡大」という現象が起こることがあります。これは瞑想中に恍惚状態になったり、幻覚を見たりする現象です。

人によってはランナーズ・ハイで、あたかも自分で自分自身の姿を離れた位置から見ているような感じになることがあります。自分の斜め後ろ上方から自分を見ているような感じになる。これを「目撃の体験」といいます。これは、一流選手なら一度ぐらいは経験している現象であり、それほど珍しいことではありません。

極端な場合には、時間を超越してしまうこともあります。まだ走行中なのに、ゴールでテープを切る自分の姿が見えてしまうのです。そして、しばらくすると本当にその通りになる。ということは、自分の未来の姿が見えていたということになるわけで、これを「未来視の体験」といっています。
このような「目撃の体験」や「未来視の体験」をする現象を「意識の拡大」と呼んでいるわけです。


最後のこの「意識の拡大」はフローだとかゾーンという状態のことを言っているのだろう。ということは、フロー状態にあるときには、βエンドルフィンがいっぱい出てるってことなんだろう。きっとそういう研究なんかもたくさんあるんだろうな。私はそういう体験したことはないように思うけど、一生に1回くらいはこんな状態を体験してみたいかも。

ディスコもマラソンも一種の瞑想

一般に瞑想法というと、座禅のように静かに座ってやるイメージが強いのですが、じっとしているだけが瞑想ではありません。体を激しく動かしながら瞑想状態に入ることもあります。ランナーズハイもそうですし、あるいはディスコで踊り狂っているときに瞑想状態に入ることもあるでしょう。
また、念仏を長時間唱えたり、単調なメロディーを長時間歌ったり聴いたりしていても瞑想に入りやすいようです。楽器演奏でリズムにのっているとき、とくに管楽器を演奏しているときにも瞑想状態に入ることがまれにあります。これは、呼吸の長さと無関係ではないでしょう。吸う息の長さにくらべ、吐く息のほうが長いほど、人間の意識はリラックスします

このように、いろいろな条件の中で、人間は脳内麻薬を出し、瞑想状態に入ります。瞑想の方法論がいろいろあるのはそのためでしょう。ということは、基本的に脳内麻薬が出るのであれば、瞑想法はどんな方法論でもかまわないわけです。

普通、脳内麻薬は死ぬときとか、マラソンなどでものすごく苦しくなったとき以外は、それほど大量には分泌されません。それ以外で大量に分泌されるのは、瞑想や坐禅の修行が相当に進んだときです。瞑想して、脳内麻薬が少し分泌してくると、ファーといい気持ちになり、宇宙に包まれたような感じになります。修行が進んで、それが大量に出るようになると、「意識の拡大」が起こり、ときには幻覚のなかで、次に述べるような「魔境の体験」や「聖なる体験」をするようなことも起きてきます。

「聖なる経験」の警告

「魔境の体験」というのは瞑想中、幻覚を見ることです。単に人形が見えたり、不思議なものが見えるだけのこともありますが、ときには悪魔が出てきたり鬼が出てきたりして、非常に怖い目に遭うことがあります。
また、幻覚のなかで神様や仏様に会ったり、天使や精霊、あるいは昔の聖人に会って、会話を交わしたりすることもあります。仏教ではこれも「魔境の経験」の一つに数えていますが、私はこれを区別して「聖なる経験」と呼んでいます。というのは、これは瞑想をしている人にとってとくに注意が必要だからです。

神様に会ってありがたい言葉をちょうだいしたりすると、自分は「悟り」を開いたのだと錯覚し、有頂天になって舞い上がってしまうケースがよくあります。それが非常に危険なのです。多くのカルト集団の教祖が、実はこのケースに相当します。
ユングは、そういう状態のことを「魂の膨張(インフレーション)」と呼び、次のように忠告しています。

こういった体験を、自己と一体化するのを避けて、あたかも人間領域の外側にあるかのように扱うのが賢明でしょう。もし同一化すると、あなたは魂の膨張、一種のエクスタシー的高揚状態に陥り、まったく道を誤ってしまうでしょう。 膨張というのはまさしく小さなかたちの狂気、狂気の緩和されたかたちなのです。そして、もしあなたが完全な膨張状態まで燃え上がってしまうと精神分裂病になります。『ユングと東洋』

私はその危険性を心得ている事が重要なのだと思います。ですから、仏様が出てこようが鬼が出て来ようが、それを突き殺すまでもなく、映画を見ているような気持で、その場面を楽しめばいいのではないでしょうか。ただし、それは決して「悟り」を開いた状態ではないということをきちんと心得て、映画を見ることができてよかった、といいう程度にとどめておく。それが、瞑想をはじめるにあたって心得ておくべき最大の注意事項といえるでしょう。それさえ覚えておけば、あとは、それほど心配するような危険性は、瞑想にはありません。


瞑想の危険性について触れている文章には初めて出会ったので、なるほどな〜とちょっと思った。
私たちは、否が応でも瞑想だとかヨーガだとかと宗教、しかもカルト宗教とを結びつけがちだ。それはもう本当にオウム真理教の犯した大きな罪のひとつだと思うのだけれども、オウムとは関係なくても瞑想に対して持つ「漠然とした不安感」というのは、ひとつはこういう「なんか変になっちゃったらどうしよう」的なことなのかもしれないなと思った。「私は神を見たので悟りを開きました」みたいな感じになって、現実世界に帰ってこれないんじゃないか、という恐れ。けれども、「神様を見た」的なことが、もし自分の身に起こったとしても、それをちゃんと自分の外側のことだとして冷静に受け止めていけばいいのだな、と思うと、そういう漠然とした不安感みたいなものはなくなるような気がする。


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集合的無意識の仮説

ーーーー『宇宙の根っこにつながる生き方』 天外伺朗より引用ーーーー
第1章 魂に栄養をつける生き方

本当の自分は内側にしかいない
わくわくするような感動を現代人が忘れてしまったのは、いったいなぜでしょうか。自分自身の魂の内側から発しているメッセージに耳を傾けなくなってきたからだ、と私は思います。つまり、本当の自分自身につながろうという努力を放棄してしまっているからではないでしょうか。

もちろん、昇進するとか、お金が儲かるといったレベルの感動もないとはいえません。しかし、そういう感動は、魂の底からしびれるような、本当の意味での感動には決して結びついてはいかないだろうと思います。本当の感動というのは、もっと本来の自分自身とつながったところから湧き出てくるものであって、そういう感動にひたれるときこそ、人間は心の底から幸福を感じることができるのだと思います。

どんなにささいなことにも感動できるということこそが、人間として正常なのだと私は思います。そしてそういう正常な状態に戻ること、つまり本当の自分自身とつながることこそが人間にとって幸福であり、それを求めるプロセスこそが人生なのではないでしょうか。

同じように、「外に行くな。真理は(自分の)内部の人に宿っている」といったのは、スイスの心理学社で精神医学者のユングです。
ユングは、自分という存在を説明する言葉として、「エゴ(EGO)」という言葉と「セルフ(SELF)」という言葉を使い分けています。日本語では一般にエゴを「自我」セルフを「自己」と訳していますが、自分の「内部の人」というのは、この「自己」のことであり、それこそが本当の自分自身であるということでしょう。

このあと例としてメーテルリンクの『青い鳥』の話が書かれてある。幸福の青い鳥を求めてあちこち旅するチルチルとミチルは、最終的に自分の家の中にあったといういお話は、幸福は結局のところ自分の心の内側にあるということを言いたかったのだろうと。

私はこれに似た経験をラオスという国で体験したことがある。ラオスというのはタイの北部にある(GDP的にいうと)貧しい国で、タイに水力発電で得た電気を売って成り立っているような国家であるが、ラオス北部のルアンパバーンという街でぶらぶら歩いているとき、川で洗濯をしていた母親に対岸で遊んでいる子供が大声でなにかを叫んでいたのを見た。

たぶん「そろそろご飯だから帰っておいで」「いやもっと遊びたいよ〜」みたいな会話だっただろうと思うのだけれども、そのの光景をぼんやり見ながら、私は何故か「ああ、幸せっていうのは、お金があるとかそういう外側の条件じゃなくて、心の中の問題なんだな」って突然思ったのだ。こんな日本から遠く離れた果てみたいな場所で、少なくとも絶対にお金持ちには見えない親子が、私を含む異国の旅人よりもなんとなく幸せそうに見えた。それは、私自身の長く続いた旅もそろそろ終わりかなと思った瞬間でもあった気がする。

人間の意識はすべてつながっている

人間の心は二重構造になっており、日常私たちが自覚している「意識層」と、その奥底に潜んでいる、ふだんはまったく意識できない、それでいて人間にいろいろ無自覚的な行動を起こさせる「無意識層」があります。

最初にこの「無意識層」を発見し、注目したのは、心理学者のフロイトでした。フロイトの弟子であったユングは、たくさんの臨床経験をもとに、人間の「無意識」の奥底に、さらに深く分け入っていきました。ユングが導き出した結論は、あまりにも一般常識からかけ離れていたために、多くの人々にすぐに理解されるといつわけにはいきませんでした。ユングは次のように言っています。

人間の「無意識」は、個人に所属するのではなく、全人類に共通であり、つながっている。

これが、ユングの「集合的無意識の仮説」といわれるものです。
人と人とは意識の深いレベルでつながっています。集合的無意識には、親族の無意識とか民族の無維持期とか、いろいろな階層があるようですが、しかし究極的に「無意識」は、奥深いところで全人類的につながっているというわけです。

もしユングのいうとおりなら、本当の自分自身、真実の人間性をもった「自己」は、表面の自分を掘り下げていった奥底にあります。そこではみんながつながっていて、自分も他人も区別がありません。したがって仮に競争のなかで他人を蹴落とせば、深いところで自分自身を蹴落とすのと同じことになるのです。また、他人の心の痛みを自分の心の痛みとして感じられる人は、本当の自分自身とどこかでつながっている人なのでしょう。
「虫の知らせ」とか「胸騒ぎ」とか「テレパシー」あるいは「以心伝心」などという現象は、人間の心と心がどこかで網の目のようにつながっていなければ、ありえないことではないでしょうか。

無意識からのメッセージに耳を傾けよ

ユングの仮説で極めて興味深いのは、「無意識」は未来を知っているとした点です。この仮説の根拠になったのは夢、すなわち「予知夢」でした。

予知夢そのものはそれほど珍しい現象ではありません。夢が「無意識」からのメッセージであるということは、フロイト以来の精神分析学の常識です。だとすれば、予知夢という現象は「無意識」が夢を通して未来のことを知らせているということになるでしょう。それは、「無意識」は未来を知っている。つまり、時間を超越した全知全能の存在である、ということになるわけです。

ユングはまた、夢は私たちの行くべき道を教えてくれる、と説いています。

人間の魂は、「無意識」と対話することにより、しだいに進化し、聖なる方向へ変容する。

「無意識」と対話するには、いろいろな方法があります。夢を分析し、解釈することも、その一つといえるでしょう。しかし、もっとも直接的で強力な方法は、何といっても瞑想法です。

魂が進化していくと、人間の表面的な「意識」と、その奥の「無意識」とが、最後は完全に一体化していきます。これが仏教でいう「悟り」の境地でしょう。

集合的無意識の話は、今まで読んだいろんな本に出てきていて一度じっくり勉強してみたいなあと思っていた。大学のゼミの教授はとにかく「引用されたら原典を当たれ」を口酸っぱく言っていたので、最終的にはユングの本を読むべきなんだろうけど、最初はわかりやすい解説書からなじんでいかないと、専門用語が多いとさっぱりわからないんだよね〜。

それにしてもまた瞑想・・・。最近読む本のあちこちに瞑想は素晴らしい的な話が載っている。
最近私も少しずつやりはじめたけど、でもほんとうに、やっぱりいいかも、瞑想。ただ座るだけの瞑想だけじゃなくて、いろいろな形で瞑想をすることができる。それはすなわちきっと無意識ーー自分自身の魂ーーとの会話なんだろうな。


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幸福感を得るためにーー気分操作の方法3ーー

ーーーー『感情』ディラン・エヴァンズより引用ーーーー
第3章 幸福への近道より

気分操作の身体的技法

瞑想は、私たちが自らの情動状態を調整するために発明した、最も安全な方法の一つかもしれない。瞑想の東洋的な形式は、精神を空っぽにし、規則正しく呼吸しながら長い間ただ座っていることを必要とするのであるが、それは、西洋でより最近になってから発達したリラクゼーションの方法と多くの点で似通っている。ここでもやはり、今日、新しいといわれるセラピーが、実のところ、何千年も前に最初に発明されたやり方を、ただ科学的に見せかけたものにすぎないということがわかる。

瞑想やリラクゼーションにおいて、情動状態を落ち着かせる効果は、カラダからのフィードバックによって成し遂げられる。リズミカルな呼吸や筋肉のリラックスした状態を、脳は穏やかな気持ちの生成に資するものと解釈するのである。他の気分も、異なる種類の身体の動きや姿勢によって引き起こされ得る。足早のジョギングは、幸福感にあふれた精神状態を誘発するし、また、ある情動に対応した顔の表情をすることは、その情動自体を感じさせることになる。情動を引き起こすこれらすべての方法を、情動の身体的技法と考えることができよう。

ウィリアム・ジェームズが1882年に指摘したように、こうした情動の身体的技法が存在するということあは、情動についての私たちの常識的考えの一つに疑問を投げかける。常識的な見方によれば、情動は身体的な動きに先立って現れ、その動きを引き起こすものということになる。例えば、熊を見て逃げるという例をとってみて考えてみたとき、ほとんどの人は、おそらく、熊が見えたことで恐れを感じ、そしてその恐れを感じたことで、今度は走ったのだと言うだろう。しかし、落ち着いた気持ちを得るために瞑想を用いたり、より幸福な気持ちを感じるためにジョギングをしたりするというとき、事はあべこべになる。この場合、情動を引き起こすのは身体の動きであり、身体の動きを引き起こすのが情動ではないのである。

心が身体に働きかけるのと同じように、身体が心のに働きかけるフィードバックのメカニズムが存在するのである。あらゆるフィードバック・ループにおけるのと同じように、それは増幅作用を生み出す。ジェームズは心の「共鳴板」としての身体について述べている。それは、ギターの共鳴箱が元の響きを増幅させるように、情動のシグナルを反響させるのである。これこそが、「自らの身体を奮い立たせる」ことで明確な情動状態を創り出すという私たちの能力を説明するものなのである。

逆に、情動の身体的技法が明らかにしているように、このフィードバックの仕組みによって、私たちは、通常ならば自動的に生じる身体的変化を故意に抑制したり、意識的に他のことをしたりすることで、自らの情動を何らかの形でコントロールすることができるようになるのである。

もちろんそこには限界がある。単に無理矢理笑顔を作ることだけでは、おり大きな幸福感が得られるわけではない。これは情動的な表情に関わる多くの筋肉が、随意的コントロールの及ばないものだからである。例えば、あなたが自発的に笑うとき、眼輪筋(目を取り囲む筋肉)は両側に収縮し、頬をつり上げ、肌を鼻に向けて内側に引き寄せる。この筋肉は随意的コントロールを容易には寄せ付けないものであり、だからこそ、通常、偽りの笑顔と本物の笑顔を区別することはきわめて容易なのである。単に両口角を引き上げ、唇をカーブさせるだけでは、完璧な喜びの表情は生まれない。つまり、そうした表情をつくっても、あまり喜びが誘発さえることはないということである。

しかし、随意的なコントロールができる筋肉とそうでない筋肉の差異はさほど堅固なものではない。ヨガやバイオフィードバックのような技法を使うことで、人は、通常ならば不随意的なものである自律神経系の働きに意欲的に制御を加え得るようトレーニングすることができる

たくさんの気分操作のための身体的技法は単に気分に対して短期的な効果をもたらすだけではない。それらはまた長期的に私たちの人生の見通しをも明るくしてくれる。少しの間走ることは、単にちょっとした興奮をもたらすものでしかないが、毎日そうすることで健康が全般的に促進されるだろう。ちなみに、そうした健康状態こそが、生活に対する全般的充足感を最も説明する変数の一つなのである。一般的にスポーツはさまざまな気分の身体的技法をもたらし得るものと考えられている。短期的な幸福感を高める代わりに長期的な幸福感をすり減らす薬物とは異なり、情動の身体的技法は短期的にも長期的にも私たちに益をもたらしてくれるのである。

幸福感への近道を選ぶ際、私たちは気分操作のさまざまな技法の中からたった一つだけを選び出すという厳しい選択を強いられるわけでは必ずしもない。私たちは、選び、また混合する。すなわち、自分の好みと価値観に応じて、複数のものを結び合わせるのである。

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