瞑想と脳内麻薬

ーーーー『宇宙の根っこにつながる生き方』 天外伺朗より引用ーーーー
第4章 かんたん瞑想で身も心もすっきりする 

脳内麻薬を出すのが瞑想の目的

瞑想法というと、日本では座禅が有名です。ほとんどの宗教は何らかのかたちでこれを取り入れていますし、気功法の静功や、武道の鍛錬のなかにもみられます。それぞれがさまざまな方法論を説いていますが、いずれもいかに心身をリラックスさせ、雑念をはらうかということを、瞑想状態に入るためのテクニックとしています。

瞑想が深くなると、人間の脳の中で「脳内麻薬」物質が分泌されることが知られています。分子構造はコカインやヘロインなどの麻薬に似ていますが、人間の体のなかで生成するものですから、麻薬のように神経がボロボロになってしまうような副作用もありません。瞑想をすると、大変気持ちがよくなったり、幻覚を見たりすることがあるのは、この物質のおかげです。

なぜ、この物質のおかげでそういうことが起こるのでしょうか。人間の脳の前頭葉に、エーテン(A10)神経と呼ばれる神経があります。人間の創造性や快楽を刺激する神経です。たとえば、「楽しい」とか「わくわくする」といった気分のときは、このエーテン神経が興奮しており、人間にやる気や創造性を発揮させます。そして、この神経を興奮させるのがβ-エンドルフィンなどの「脳内麻薬」なのです。

瞑想を行うと、この「脳内麻薬」が分泌され、ホンワカと気持ちよくなってきます。それがもっと高じると、「意識の拡大」という現象が起こることがあります。これは瞑想中に恍惚状態になったり、幻覚を見たりする現象です。

人によってはランナーズ・ハイで、あたかも自分で自分自身の姿を離れた位置から見ているような感じになることがあります。自分の斜め後ろ上方から自分を見ているような感じになる。これを「目撃の体験」といいます。これは、一流選手なら一度ぐらいは経験している現象であり、それほど珍しいことではありません。

極端な場合には、時間を超越してしまうこともあります。まだ走行中なのに、ゴールでテープを切る自分の姿が見えてしまうのです。そして、しばらくすると本当にその通りになる。ということは、自分の未来の姿が見えていたということになるわけで、これを「未来視の体験」といっています。
このような「目撃の体験」や「未来視の体験」をする現象を「意識の拡大」と呼んでいるわけです。


最後のこの「意識の拡大」はフローだとかゾーンという状態のことを言っているのだろう。ということは、フロー状態にあるときには、βエンドルフィンがいっぱい出てるってことなんだろう。きっとそういう研究なんかもたくさんあるんだろうな。私はそういう体験したことはないように思うけど、一生に1回くらいはこんな状態を体験してみたいかも。

ディスコもマラソンも一種の瞑想

一般に瞑想法というと、座禅のように静かに座ってやるイメージが強いのですが、じっとしているだけが瞑想ではありません。体を激しく動かしながら瞑想状態に入ることもあります。ランナーズハイもそうですし、あるいはディスコで踊り狂っているときに瞑想状態に入ることもあるでしょう。
また、念仏を長時間唱えたり、単調なメロディーを長時間歌ったり聴いたりしていても瞑想に入りやすいようです。楽器演奏でリズムにのっているとき、とくに管楽器を演奏しているときにも瞑想状態に入ることがまれにあります。これは、呼吸の長さと無関係ではないでしょう。吸う息の長さにくらべ、吐く息のほうが長いほど、人間の意識はリラックスします

このように、いろいろな条件の中で、人間は脳内麻薬を出し、瞑想状態に入ります。瞑想の方法論がいろいろあるのはそのためでしょう。ということは、基本的に脳内麻薬が出るのであれば、瞑想法はどんな方法論でもかまわないわけです。

普通、脳内麻薬は死ぬときとか、マラソンなどでものすごく苦しくなったとき以外は、それほど大量には分泌されません。それ以外で大量に分泌されるのは、瞑想や坐禅の修行が相当に進んだときです。瞑想して、脳内麻薬が少し分泌してくると、ファーといい気持ちになり、宇宙に包まれたような感じになります。修行が進んで、それが大量に出るようになると、「意識の拡大」が起こり、ときには幻覚のなかで、次に述べるような「魔境の体験」や「聖なる体験」をするようなことも起きてきます。

「聖なる経験」の警告

「魔境の体験」というのは瞑想中、幻覚を見ることです。単に人形が見えたり、不思議なものが見えるだけのこともありますが、ときには悪魔が出てきたり鬼が出てきたりして、非常に怖い目に遭うことがあります。
また、幻覚のなかで神様や仏様に会ったり、天使や精霊、あるいは昔の聖人に会って、会話を交わしたりすることもあります。仏教ではこれも「魔境の経験」の一つに数えていますが、私はこれを区別して「聖なる経験」と呼んでいます。というのは、これは瞑想をしている人にとってとくに注意が必要だからです。

神様に会ってありがたい言葉をちょうだいしたりすると、自分は「悟り」を開いたのだと錯覚し、有頂天になって舞い上がってしまうケースがよくあります。それが非常に危険なのです。多くのカルト集団の教祖が、実はこのケースに相当します。
ユングは、そういう状態のことを「魂の膨張(インフレーション)」と呼び、次のように忠告しています。

こういった体験を、自己と一体化するのを避けて、あたかも人間領域の外側にあるかのように扱うのが賢明でしょう。もし同一化すると、あなたは魂の膨張、一種のエクスタシー的高揚状態に陥り、まったく道を誤ってしまうでしょう。 膨張というのはまさしく小さなかたちの狂気、狂気の緩和されたかたちなのです。そして、もしあなたが完全な膨張状態まで燃え上がってしまうと精神分裂病になります。『ユングと東洋』

私はその危険性を心得ている事が重要なのだと思います。ですから、仏様が出てこようが鬼が出て来ようが、それを突き殺すまでもなく、映画を見ているような気持で、その場面を楽しめばいいのではないでしょうか。ただし、それは決して「悟り」を開いた状態ではないということをきちんと心得て、映画を見ることができてよかった、といいう程度にとどめておく。それが、瞑想をはじめるにあたって心得ておくべき最大の注意事項といえるでしょう。それさえ覚えておけば、あとは、それほど心配するような危険性は、瞑想にはありません。


瞑想の危険性について触れている文章には初めて出会ったので、なるほどな〜とちょっと思った。
私たちは、否が応でも瞑想だとかヨーガだとかと宗教、しかもカルト宗教とを結びつけがちだ。それはもう本当にオウム真理教の犯した大きな罪のひとつだと思うのだけれども、オウムとは関係なくても瞑想に対して持つ「漠然とした不安感」というのは、ひとつはこういう「なんか変になっちゃったらどうしよう」的なことなのかもしれないなと思った。「私は神を見たので悟りを開きました」みたいな感じになって、現実世界に帰ってこれないんじゃないか、という恐れ。けれども、「神様を見た」的なことが、もし自分の身に起こったとしても、それをちゃんと自分の外側のことだとして冷静に受け止めていけばいいのだな、と思うと、そういう漠然とした不安感みたいなものはなくなるような気がする。


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