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フロー経験ーー手術

ーーーーー『楽しむということ』Mチクセントミハイ より引用ーーーーー
第8章 仕事の楽しさーー手術

手術は、職業という条件下での理想的なフロー活動の例である。外科医の仕事は明確な初めと終わりによって区切られ、日常の中に不連続に挿入される出来事である。手術は完全な集中を必要とし、直接的なフィードバックを与え、正誤の明確な判断基準を持っている。手術はその構造的特性の故に、「余暇」活動と同じく、楽しいものとして経験されると予想される。

---外発的報酬
社会的尊敬から、人の健康を回復させる満足に至るまで、外科という職業は多くの外発的報酬を提供する。しかし我々の被験者(=外科医)は、手術という活動を、自分の職業から生ずる最も大きな報酬と感じているようである。威信や金銭は人々を外科医になることに動機づけるうえで重要なものである。そしてそれらは明らかに人々をこの職業にとどまらせる基本的な誘因となっている。しかし外科医のほとんどすべてが、第一次的には手術それ自体をたのしむために自分の仕事に没頭している。

---内発的報酬
行為への挑戦と機会と楽しさ

フローは平凡な症例の場合にも生ずるが、順調に進行している「挑戦的」な、または「困難な」手術の場合に一層生じやすいように思われる。しかし、どのようなタイプの手術がフローを生み出すかは、経験、専門分野、手術の進め方、及び個人の能力により、外科医毎に異なっている。

もし何かが思うように行かないときや、手術が挑戦的なものから問題を含んだものに変化したとき、緊張、次いで不安がフロー状態にとってかわる。この変化の原因は、その外科医または手術チームのひとりの技術的失敗や判断の誤りから、患者の予期せぬ反応、あるいは、器具がこわれたり、はずれたりすることに至るまでさまざまである。

しかし反応がどのようなものであれ、それらは既にフローの状態から離れている。集中は崩壊し、自我意識が戻り、手術の満足は消失している。

刺激領域の限定

手術はそれに係わる一連の特殊な刺激や規範、行為を伴う、それ自体一つの完結した世界である。そろえはその活動が遂行され、一組の役割、制服、儀式のある特別の場ーー「手術劇場」ーーーである。

外科医が作業を進めていくに従い、極度の注意集中のため、彼は時間の経過や自分自身の体、環境や自分以外の人々を感知しなくなるようである。

目標とフィードバックの明確さ

外科医の注意集中は更に、絶え間ないフィードバックによって維持される。そのフィードバックは、手術の進み具合を彼に知らせ、従って動作の即座の修正を可能にしている。このフローの要素は手術にとって決定的に重要なものである。ほとんどすべての被験者は、日々の生活での出来事とは対照的に、手術中にはたいていの場合、為すべきことを正しく知っていると述べた。

能力と支配

何人かの高度に専門的な外科医にとっては、ほとんどの外科医が忘れることのできる時間それ自体が、支配すべき挑戦の対象の一つになる。これはフローのルールを確認するものとしては例外的なものである。優れた外科医は手術における一つの挑戦要素として、時間を操作することを身につける。彼らはもはや時間の奴隷ではない。逆に彼らは自分の目的に合わせて時間を組織する。

自我境界の超越

外科手術は他のフロー活動がしばしば生み出す超越感や環境との融合感をほとんど生まない。外科医が手術に完全に没頭し、自分の身体や同一性、個人的問題などを忘れることもあり得るが、手術に没頭していない時には、彼に課せられた重大な責任が、ともすると、いくぶん自己中心的にする、とはいわないまでも自我を意識させる。しかしまた施術者は手術チームや、その活動の持つ美的リズムに同一化する。


外科医と比べると私の仕事は外発的報酬も高くはないかもしれないけれど、それでもボディセラピストでいること、お客さまに施術するその時間というのは間違いなく私にとってのフロー活動なのだと思う。毎回時間を忘れるような集中が続くかといえばそうではないけれど、でも本当に集中しているときは時間があっという間に経ってしまうし、自分の意識ではない何かがーー手が勝手に動くようにーー施術しているという感覚がある。そして、お客さまの反応を常に見ながら、ーー生死を分ける手術ではないけれどしかしながら限りなく近い感覚でーー痛いとか気持ちいいというようなそのフィードバックをもとに施術をしていくのだ。

−−−結論

外科医に対する面接の結果は、余暇活動にみられるフロー経験が、外科の仕事の中にも存在することを示唆している。従って、仕事と余暇の二分法が不必要である以上、我々はさまざまな活動を挑戦的で楽しいものに構成、あるいは再構成することができるはずである。

人々は、もし仕事が楽しいものだとしたら、それは生産的なものではあり得ないと考えがちである。
多くのーーおそらくほとんどのーーー職業は、もしその活動が上層部の人々、または仕事に従事しているその人自身によって、フロー活動を生ずるように再構成されるならば、内発的報酬を生むように作り替えることができよう。

遊びと仕事の頑固な区別は、遊びが現実の生活では真の重要性を持たない、という仮定である。遊びにおける過ちが罰せられることはない。もしこの区別が真実ならば、フローモデルは手術には適用できなかったであろう。しかし、「遊び」がすべてうまくいく孤絶した領域でのできごとであるということは全く間違っている。我々はロッククライマーが「遊ぶ」時に、絶えず危険に身をさらすことを見てきた。多くの競技者は、日常茶飯事のように自分の体を賭ける。外科手術を含むこれらすべての活動において、危険はその活動に集中させ、行為者への技能へのフィードバックを返す手段として役立っている。それらは楽しさを妨害するものではなく、むしろフロー経験を生み出す挑戦の一部なのである。

仕事をする上で身体的な危険というのは感じることはないけれど、でも毎回これで勝負だ!みたいな感覚になることはあるかもしれない。お客さまが次回またご来店してくださるかどうかは、今回のこの時間いかにいいセッションをするかにかかっているわけで、そういう意味では毎回スリリングだし、毎回同じ人でもカラダの反応は違うので、不確定要素が強いという意味でもフローを起こしやすいのかもしれない。そういう仕事ができて、仕事の中でその要素があるというのは幸せなことだなと思う。


いずれのフロー活動も習慣形成的なものになり得る。チェスの優勝者の多くが一度最高位を窮め、習慣化された挑戦の機会を奪われると、とたんに腰くだけになることが知られている。この種のほとんどすべての活動について、同じようなことを聞く。ある活動への参加者が、まだ完全にフローに没入しているときでさえ、特定の狭い挑戦に依存するようになり、他のすべてのことが楽しくなくなることもある。チェスをしたり、ロッククライミングをしている時にのみ生き生きしているというkとは、人間の適応上あまり好ましいこととはいえない。従って、人はいくつかの異なった領域での技能を磨くべきであろう。このことにより、人はさまざまな環境の中でフローを経験できることになる。

フローの中毒性を持つという特性と、超社会的思考を生む可能性とは、表裏一体の関係にある。
深いフローの世界の単純な美は魅惑的にすぎるので、何人かの人々は日々の生活での安定した地位を放棄し、フロー活動の閉鎖的な世界へと引きこもってしまう。これが生ずるとフローの建設的可能性は失われる。
しかしこれらの危険性は、内発的動機づけの持つ力を確証するにすぎない。すべての形式の動機づけと同様、フローは危険な資源である。しかし、もしその利点が外発的報酬をしのぐならば、それは我々にとって、一つの無視することのできない資源なのである。

確かに、何か一つのこと、それだけがフローになれる手段だっていうのは、麻薬みたいなもので危うい感じはする。仕事や遊びにこうした集中が起こるとどんなに素晴らしいか、どうしたらこういうフロー状態になれるのだろうか?そもそもフローとは?というところからこの本を読み始めた。

このチクセントミハイという著者が原典で、そこからたくさんの関連本が今は発行されている。本の中では日常の中での小さなフロー体験を「マイクロフロー」と呼んで、通常のフローとは区別しているけれど、仕事の中でも日常生活の中でも、積極的な楽しさを得るという意味でこのフローという感覚は大切にしていきたいなと思った。

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